徳川家慶の政治と天保の改革
1将軍徳川家慶誕生(1837年~1853年)
徳川家慶(とくがわいえよし)は、1837年11代将軍徳川家斉の後を次いで12代将軍になりました。しかしながら徳川家慶が将軍になった後も、1837年~1841年までは父徳川家斉が
「大御所」として政権をにぎり続け、徳川家慶が政権を取るのは1841年、父家斉が死去したあとになります。
家斉の死去後、徳川家慶は四男の徳川家定を次期跡継ぎに決定し、老中水野忠邦を重用して、家斉派をすべて粛清し、「天保の改革」を実行します。やがて世間の批判によって、改革が潰れると、
土井利位(どいとしつら)や阿部正弘など有能な人物を抜擢しました。そして1853年ペリー来航の対応に幕府が追われている間に徳川家慶は急死してしまいます。徳川家慶自体は政治には疎かったようですが、人を見る目だけは確かだったようです
2天保の改革(1841年~1843年)
徳川家斉の政策で、一時的に活気を取り戻した江戸の町でしたが、再び天保の大飢饉によって幕府の財政は危機に瀕していきます。旗本は窮乏化し、農地も荒れ放題、乱や打ちこわしが頻発する中実権を握った徳川家慶の老中水野忠邦は、徳川家斉時代の贅沢な雰囲気を一層し、再び質素倹約、重農主義=農業中心になうような改革を断行します。この改革は結果的には3年で終わってしまうのですが、時々論述問題でも出るので時系列で覚えておくとよいでしょう
①株仲間の解散(1841)
株仲間とは田沼意次が作ったもので、現代の日本医師会のような同業者組合のようなものです。
徳川家慶の老中水野忠邦は「株仲間こそ不法に物価をつり上げている元凶である」として株仲間を開戦させますが、これがかえって逆効果になり、物の適正価格がわからなくなりになり、経済の混乱を招いてしまいます。現代でいえば、電力会社や水道会社が急に潰れてしまうようなイメージです。困りますよね
②薪水給与令(1842年)
徳川家慶の時代の外交はどうなっていたかというと、1808年イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船と偽り長崎奉行所に侵入し、オランダ人二人を拉致した事件=フェートン号事件や、1824年水戸藩の大津浜にイギリス人12人が無断で入国したという事件=大津浜事件などが続きこれに危機感を持った幕府が翌1825年異国船打払令を出し、外国船を見たらとにかく打ち捨てよ」という命令を出していました。当然これにもかなりのお金がかかっていました。これに目を付けた徳川家慶の老中水野忠邦は、この法令を廃止し、薪水給与令を出します。「外国船を見たら、補給ぐらいはしてやれよ」という意味氏ですね。背景にはこのころ起こったアヘン戦争(1840~1842年)があります。日本のの隣の清国=中国がイギリスによってアヘンという麻薬で汚染されたあげく、イギリスに攻められ敗北したのです。水野忠邦の頭には「日本もこのままいけばやられてしまう」と危機感があったことでしょう。
③芸術、思想の統制
現代では日本の伝統文化として大切にされている歌舞伎ですが、徳川家慶の時代は歌舞伎は「風俗を乱すもの」として厳しく弾圧されます。現在の歌舞伎の名家市川団十郎が江戸追放となったのです。そのほかにも人情本や錦絵、絵草紙なども統制され、為永春水や柳亭種彦らが処罰されています
④人返し令(1843年)
この法律はその名の通り、江戸に出稼ぎにきている地方の農民に対し、地方に帰り農業を促すという法律です。徳川家斉の時代の寛政の改革で出た「旧里帰農令」と違うところは
徳川家慶時代の法律には強制力があったということです。しかしながらこの法律は結果的には実行されることはありませんでした
⑤上知令(あげちれい)(1843年)
はい。この法律が徳川家慶の老中水野忠邦の失脚の原因となったといわれています。
この法律は江戸十里四方=40キロ四方と大坂の5里四方=20キロを、それぞれ商人や旗本から取り上げ、江戸幕府の直轄地として、そのかわりに替え地を与えるという法律です。名目上は幕府の威信回復でありましたが、実際には幕府の収入をアップさせることで財政の立て直しを図ろうとしたと考えられています。さすがにこの法律には各地の大名や旗本が大反対、腹心の裏切りもあり、水野忠邦は失脚します。続いて徳川家慶の老中となったのは土井利位でした。
3ペリーの来航
土井利位が江戸城の本丸消失事件や外国問題の紛糾から徳川家慶の不満をかい失脚すると、再び水野忠邦が老中に復帰しました。これに「一度罷免したものをまた老中にするのはおかしい」と
徳川家慶をいさめ、天保の改革一派を一艘したのが老中阿部正弘です。阿部正弘は1846年海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)を常設とし、外交、国防問題にあたらせました。
1852年長崎に着任したオランダ商館長ドンゲル、クラチウスは幕府に対し「もうすぐアメリカのペリーという男がくるからこのままそれに屈するより、うちと通商しないか」と持ちかけますが幕府はそれを拒否しました
1853年ペリーが浦賀に来航です。徳川家慶の老中阿部正弘はまず朝廷に報告、次にそれに対する対応策を広く大名や旗本から意見を聞こうとします。現代では民主的でよいことのように思いますが、まず朝廷に連絡してしまったことで、何かあったときには朝廷に意見を求めるという慣例を作ってしまったこと、次に多くの人の意見を求めることで、幕府、将軍の権威を弱め江戸幕府にさらに動揺を与えることになり、のちの倒幕運動につながっていってしまうのです。結局徳川家慶は幕府がペリー来航の対応策に追われている間に心不全で他界してしまい、その子徳川家定が第13代将軍になります。
問題
天保の改革について正しいものを次の中から選びなさい
1旧里帰農令を出し強制的に農民を地方に返させた
2芸能、思想の統制を行い林子平の海国兵談を発禁処分にした
3上知令を出し江戸大坂の土地を幕府に直轄地にした
正解 3
解説
1旧里帰農令を出したのは徳川家斉の時の老中松平定信である。また旧里帰農令には強制力はなかった
2芸能、思想の統制を行ったのは正しいが、林子平の海国兵談が発禁になったのは松平定信の寛政の改革の時であり、正しくナウ
3正しい。徳川家慶の老中水野忠邦が1843年に出した法令である。結果として天保の改革失敗の要因となる