戊辰戦争における幕府側の志士たち。10分ぐらいで新撰組の戊辰戦争での戦いがわかる!
■新撰組ってどんな部隊?
新撰組とは、京都の治安維持の部隊、今でいう警察。
聞こえならいいけど、もともとは江戸周辺の武士じゃなくて、多くは農民だったり、商人だったり身分がバラバラの集団だったんだ。
そこで幕府への忠義度が高い会津藩が面倒を見る事になったんだ。
このときの会津藩主・松平容保は、京都守護職として、尊皇攘夷を掲げる浪人から天皇や公家たちが住む京都の町を守る役割をしてたから、新撰組も会津藩も目的は同じだったんだ。
■戊辰戦争以前はどんな活躍をしていたの?
新撰組の主な仕事は京都の見回り。
京都の町は尊皇攘夷の浪人が隠れ潜んでる事もあったから、怪しい場所は踏み込んで捜査もしていたんだ。
時に隊士の一人が敵の内側に入り込んで、新撰組と気付かれずに情報収集することもあって、新撰組のところには不貞浪人に関する情報が入って来るんだ。
こういう活躍もあって、会津藩と新撰組は京都の町を守っていくんだ。
■戊辰戦争での新撰組の活躍は?
慶応3年(1867年)10月に幕府が政権を天皇に返す大政奉還したことで多くの藩の大名や武士たちが動揺した。
もちろんそれは今まで京都の町を守ってきた会津藩も新撰組も例外ではなかった。
しかも11月に坂本龍馬が暗殺されて、新撰組が坂本龍馬を暗殺したんじゃないかという、うわさが広がった。
しかも12月には二条城へ出向く途中、新撰組と袂を分かち、粛清したはずの御陵衛士の残党が新撰組局長・近藤勇を追撃する事件があったんだ。
- 戊辰戦争:鳥羽・伏見の戦い
王政復古の大号令を受けて、幕府に使える武士たちの不満が爆発して、戊辰戦争が始まった。
翌年の慶応4年(1868年)1月、肩を負傷した近藤勇に代わり、新撰組副長の土方歳三が新撰組の指揮をしていたんだ。
しかし、新政府軍の洋式銃には成す術もなく、新撰組が属する幕府軍は敗北した。
おまけに新政府軍は錦の御旗を掲げたもんだから、幕府軍は朝敵の烙印を押された上、幕府軍を裏切る藩が急増したんだ。
新撰組も多くの死傷者を出し、指揮をしていた土方歳三も「もう刀や槍の時代ではない」と言い、新撰組の洋式化を勧めたんだ。
- 戊辰戦争:甲州勝沼の戦い
鳥羽・伏見の戦いに敗れた新撰組は大阪から軍艦で江戸に撤退した。
3月に幕府直轄の甲府へ向かったんだ。
新撰組は甲州鎮撫隊と名前を変えたのはいいけど,大名のように振舞ったせいなのか、天候が悪かったせいなのかかなりの時間を空費したんだ。
甲州鎮撫隊は勝沼に進軍したが、その間に300いた兵は次々と脱走して、着いたときには121人ぐらいしかなかったんだ。
土方歳三は急いで援軍を頼んだが、来なかった。
山梨郡町田中・歌田において新政府軍との戦闘が始まり、大砲が破壊された事もあってか、甲州鎮撫隊は後退を余儀なくされた。
そのまま抗戦を続けたが、援軍が来ないとなると、次々と逃亡する者がでた。
- 近藤勇の投降
甲州鎮撫隊の敗北を受けて新撰組は流山での再起を目指した。
けれど、江戸城無血開城の報を受けたのか、4月に新政府軍が新撰組の本陣を包囲した。
そして、近藤勇は新政府軍に投降した。
このときでの近藤勇と土方歳三の行動にはいろんな説があるが、土方歳三はすぐさま江戸に向かって近藤勇の助命嘆願をしたが、板橋にて近藤勇は斬首された。
首は三条大橋にさらし首にされたが、その後の行方は分かっていないんだ。
そして5月末、肺結核にかかって療養中だった新撰組一番隊組長沖田総司が亡くなったんだ。
- 戊辰戦争:宇都宮城の戦い
近藤勇が新政府軍に投降した後、土方歳三は助命嘆願の傍ら、新撰組を三番隊組長の斉藤一に任せて、会津藩へ向かわせた。
数名の隊士たちと共に旧幕府軍に合流して、新政府軍の陣置がある宇都宮城へ向かったんだ。
この戦いで宇都宮城は陥落し、旧幕軍は勝利したけど、壬生での戦いで土方歳三は足を負傷して、療養と斉藤一との合流のために会津へ向かったんだ。
- 戊辰戦争:会津戦争
会津での新撰組の活躍は斉藤一が大いに活躍した。
まず、会津の防衛の最前線白河口の戦い。
会津藩家老西郷頼母が総督の下、斉藤一が活躍して白河城を取り戻すが、新政府軍の奇襲攻撃にあって敗れてしまった。
8月、3ヶ月の療養を得た土方歳三は母成峠の戦いで最前線に出たが、またしても敗れてしまったんだ。
3ヶ月の療養生活の間に土方歳三は近藤勇の死を知るが、若松城攻防戦の前に会津の少年兵・白虎隊との交流を交わしたみたいなんだ。
土方歳三は白虎隊の少年たちにとっては憧れの存在だったからだ。
新政府軍が若松城下に迫る間近、土方歳三は援軍を求めに仙台へ向かったんだ。
一方斉藤一は一部の隊士と共に如来堂で戦い、会津藩が降伏した後に捕虜となって、会津藩士の移住先の斗南藩で会津藩大目付の娘と結婚したんだ。
- 榎本武揚との合流
土方歳三は仙台へ向かったが、援軍が送れないこととなってしまった。
旧幕府海軍の副総裁の榎本武揚と合流して、奥羽越列藩同盟の軍儀に参加したが、9月に奥羽越列藩同盟が崩壊すると10月、残りの隊士と抵抗を続ける旧幕府軍と共に大江丸に乗船して蝦夷地へと渡ったんだ。
- 戊辰戦争:五稜郭の戦い
蝦夷地へ上陸して幕府が北方の防衛拠点として作られた五稜郭を占領したんだ。
土方歳三は残った数名の新撰組隊士や額兵隊を率いて、松前城を陥落させた。
榎本武揚は開陽丸で土方歳三の援護に向かったが、座礁して開陽丸は沈没したんだ。
12月榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国が成立して、土方歳三は陸軍奉行並という幹部になったんだ。
翌年の1869年の1月と2月には函館と五稜郭の見回りをするなど、戦いのない日々が続いたけど、新政府は蝦夷共和国を認めなかった。
3月に新政府軍が進軍して、土方歳三は新政府軍の甲鉄艦の奪取を目的とする宮古湾海戦で戦ったが、作戦は失敗して新撰組隊士の野村利三郎が戦死した。
4月、新政府軍が蝦夷地への上陸を受け、土方歳三は300の兵を率いて、二股口の戦いで徹底抗戦した。
この戦いで土方軍は連戦連勝したが、松前口が破られて退路が絶たれる危険があったため、五稜郭へ撤退せざるを得なかった。
5月、新政府軍による五稜郭の総攻撃を受け、新撰組が守る弁天台場が包囲されて孤立し、土方歳三はわずかな軍を率いて一本木関門を守備したが、その最中に腹部を銃弾に撃たれて戦死した。
その数日後、榎本武揚は降伏して戊辰戦争での新撰組の戦いは終わったんだ。
戊辰戦争の後、生き残った新撰組隊士の多くが武士とは違う後半生を送ったが、戊辰戦争での恨みを晴らすかのように、西南戦争に従軍した元隊士もいたんだ。
また、京都や戊辰戦争での活躍ぶりなど、新撰組の記録を書きとめる人もいたんだ。