薪水給与令についてまとめました!薪水給与令が2回出されたのって知ってる?
薪水給与令とは?
薪水給与令は、江戸時代、幕府が外国船に対して燃料、飲料水を与えることを認めた法令です。
文化の薪水給与令と天保の薪水給与令の二つがあります。
それぞれが出された経緯をきちんろおさえておきましょう。
文化の薪水給与令
文化3年(1806年)、文化の薪水給与令が出されました。
1804年、ロシアのレザノフが長崎に来航し、通商を求めました。
しかし、幕府はレザノフを半年以上留め置いたうえで、通商を拒否し、退去させました。
その後、幕府は文化の薪水給与令を出し、外国船に燃料、飲料水の補給を認めることで、穏便に退去してもらおうと考えました。
(もっとも、レザノフの部下により択捉島、樺太が攻撃されたことで、1807年、幕府はロシア船打払令を出し、文化の薪水給与令は1年で撤回されてしまいました)
異国船打払令
1808年に起きたイギリス船によるフェートン号事件、イギリスの捕鯨船の船員が上陸した大津浜事件、宝島事件などを受けて、
幕府は1825年、異国船打払令を出しました。理由にかかわらず、清とオランダ以外の外国船は見つけ次第うちはらえという厳しいものでした。
天保の薪水給与令
しかしながら、1837年、日本人漂流民の返還と通商を求めるために来航したアメリカ船モリソン号を砲撃したモリソン号事件により、国内でも異国船打払令に対する批判が強くなりました。
さらに、1840年に勃発したアヘン戦争に関して、イギリスの軍事力が清を圧倒しているという情報が伝わりました。
幕府は、欧米の強大さを知り、あまりに強硬な態度をとるのはまずいと考えるようになりました。
そこで、1842年、異国船打払令を緩め、外国船に燃料、飲料水の補給を認めることにしました。そのために出されたのが天保の薪水給与令です。
その後
幕府は、あくまで薪水の補給を認めただけで、開国には応じませんでした。
1844年には、オランダ国王ウィレム2世の開国を勧める親書が届きましたが、幕府の考えは変わりませんでした。
おさらい
(問)次の①~④の出来事を、時系列順に並べよ。
① モリソン号事件
② 天保の薪水給与令
③ フェートン号事件
④ 異国船打払令
(答)
③→④→①→②
このあたりは船の名前や船籍(船の国籍)が複雑です。
流れを抑えたうえでしっかり覚えましょう。