岩倉使節団って何しにいったの?実は近代化のきっかけなんです!
岩倉使節団とは?
岩倉使節団とは、明治維新間もない明治4年(1871年)から6年(1873年)にかけて、明治政府からアメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団です。
岩倉具視が正使であったことから岩倉使節団と呼ばれています。
岩倉使節団の目的
では、岩倉使節団は、何のために長期にわたり各国を歴訪したのでしょうか。大きく分けると次の3つの理由が挙げられます。
① 条約を結んでいる各国首脳を表敬訪問し、国書を提出する
② 西洋文明の視察、調査
③ 不平等条約改正の予備交渉
③については補足が必要かもしれません。
ご存知のとおり、江戸幕府はアメリカやヨーロッパ各国と不平等な条約を結んでおり、明治政府がそれを引き継いだ形になっていました。
明治維新後、明治政府は不平等条約を改正するために交渉をしましたが、各国の同意は得られませんでした。
ところで、日米修好通商条約13条では、1872年7月4日以降、必要に応じて条約の内容を見直すとの取り決めがありました。ヨーロッパ各国との条約も同様です。
そこで、明治政府は、1872年7月4日以降、すみやかに条約を改正するため、使節団を派遣し、事前に明治政府の意向を打診し、予備交渉を行うことにしたのです。
岩倉使節団の構成
岩倉使節団は、使節46名、随員18名、留学生43名の総勢107名で構成されました。
全権大使は岩倉具視、副使は木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳です。
留学生の中には、後にルソーの思想を日本に紹介した中江兆民などがいました。また、津田梅子ら女子5名も含まれていました。
岩倉使節団の旅程
岩倉使節団は、横浜港を出発し、太平洋を渡ってアメリカのサンフランシスコに到着しました。そして、大陸横断鉄道を利用してワシントンD.C.を訪問、グラント大統領と謁見しました。
岩倉たちは、条約改正の交渉を持ち出しましたが、アメリカ側は、日本の近代化が遅れていることなどを理由として、条約改正に反対の態度をとりました。また、岩倉使節団が、条約改正に必要な天皇の全権委任状を持っていなかったことも問題とされました。
結局、日本側がまだ条約改正についての準備ができていないということで、条約改正の交渉はうまくいきませんでした。
使節団は、アメリカやヨーロッパ各国との国力の差を実感し、条約改正は困難であると見て、以降は西洋文明の調査に力を注ぐことになります。
アメリカでの約8カ月に及ぶ滞在の後、岩倉使節団は、大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪します。ヨーロッパでは、イギリス、フランスを始めとして12カ国を歴訪しました。
帰途は、フランスのマルセイユを出港し、地中海を経てスエズ運河を通り、紅海からインド洋を回り、明治6年(1873年)9月13日、横浜港に到着しました。
明治11年(1878年)には、使節団の見分報告書である「米欧回覧実記」が刊行されました。
岩倉使節団の功績
岩倉使節団は、条約改正という目的に関しては成果を上げることはできませんでした。
しかし、岩倉、大久保、木戸といった明治政府の首脳が直接西洋文明に触れ、近代化の必要性を強く自覚したことが、明治政府が近代化を急速に進める要因の一つになっていきます。
また、使節に同行した留学生が後に帰国し、様々な分野で欧米の最新の知識、学問を日本にもたらします。
このように、岩倉使節団の功績は決して小さいものではありません。
不安な人は
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