徳川秀忠ってどんな人?徳川秀忠に関する出来事全てまとめました!
徳川秀忠とはどんな人?
~キーワード~ 家康の三男 右近衛大将 関ヶ原 遅参 江戸幕府第2代将軍
徳川秀忠は1579年(天正7年)生まれ。徳川家康の三男であり、江戸幕府第2代将軍である。本来長男が後を継ぐのだが、長男徳川信康は徳川秀忠の生まれた同年に信長の命により自害させられている。
また、次男徳川秀康は結城家に養子に出されて後を継いでおり不在。その為三男である徳川秀忠が長男扱いとなり後を継ぎ、1603年(慶長8年)に
右近衛大将に就任。1605年4月(慶長10年)に征夷大将軍の座に就いた。
この秀忠は将軍に就くまでの間に大きな合戦で失態を晒している。1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦である。
この合戦に参加すべく中山道を進軍していた徳川秀忠は信州の上田城で真田昌幸・幸村親子の籠城戦に手間取り関ヶ原に遅参する。ここで徳川家康に激怒されている。
徳川秀忠の将軍在任期
~キーワード~ 1605年 征夷大将軍就任 二元政治 12年間
徳川秀忠が将軍に就いたのは1605年(慶長10年)~1623年(元和9年)であるが、1605年から1616年(元和2年)までの間は徳川家康が大御所としてまだ実権を握っていた為、全ての政を取り仕切る立場では無かった。
徳川家康が死去するまでの12年間は隠居して大御所となった徳川家康と将軍の徳川秀忠の二元政治体制であった。
秀忠が先頭に立って政を始めるのは1616年からである。
慶長遣欧使節
~キーワード~ 1613年(慶長18年) 伊達政宗 ルイス・ソテロ 支倉常長
徳川家康の許可の元、伊達政宗がスペイン国王、ローマ教皇に送った使節団である。正使は伊達政宗の家臣である支倉常長である。だがこの外交は失敗に終わっている。
方広寺鐘銘事件
~キーワード~ 1614年(慶長19年) 方広寺 国家安康 君臣豊楽
1614年(慶長19年)方広寺の鐘銘に「国家安康、君臣豊楽」の文字が国家安康とは徳川家康を引き裂き呪う言葉である、君臣豊楽は豊臣家の繁栄を願った言葉である等と言うと言いがかりをつける。
無論そのような意図は全くないが、これへの弁明を徳川家康は聞き入れる事はなく、これが引き金となり大坂の役へと急速に展開する。
大坂冬の陣
~キーワード~ 1614年(慶長19年) 大坂冬の陣 大坂城 真田幸村 真田丸
大坂城で籠城する豊臣方とそれを攻め落とす徳川方との合戦である。この合戦に徳川秀忠は総大将として出馬している。
徳川方には大大名が数多く参戦し、一方の豊臣方は浪人などを掻き集めた烏合の衆であった。だが、大坂城は豊臣秀吉が金に物を言わせて作らせた難攻不落の城であり容易に落とす事は出来なかった。
難攻不落の城の上に厄介な代物が作られていた。それが真田丸である。
難攻不落の城とは言え、大坂城の南側は手薄であり徳川方も南側から攻めている。そこに真田丸を築き真田幸村が奮戦した。
長期戦になると籠城側が有利になる為、徳川家康は和睦を申し出る。奮戦していたとは言え、損害著しい豊臣方もこれを承諾した。
この和睦の内容は非常に豊臣方にとっては不利な条件であった。
- 大坂城の二の丸・三の丸・外堀を埋める事
- 豊臣秀頼の母・淀君を人質に差し出す代わりに、大野治長、織田有楽を人質に差し出す
という内容であった。
大坂夏の陣
~キーワード~ 1615年(慶長20年) 豊臣氏滅亡 元和偃武
この夏の陣でも徳川秀忠は総大将として出馬している。大坂冬の陣の和睦条件で外堀を埋めてしまった豊臣方は、もはや籠城戦もままならなくなっていた。
豊臣方の武将は次々と戦死し、冬の陣で獅子奮迅の活躍を見せた真田幸村隊も壊滅する。逸話では幸村は単騎で徳川家康の首を取るために戦中突破をするも寸前の所で打ち取られている。
城内にまで侵入してきた徳川方を見て豊臣秀頼と母・淀君は大坂城で自害して果てる。これで豊臣氏は滅亡し、応仁の乱以降の戦乱の世が終わった事となる。
これら戦乱の終結を元和偃武と呼ぶ。
尚、豊臣秀頼の正室で徳川秀忠の娘である千姫は落城と共に救出されている。
武家諸法度
~キーワード~ 1615年(慶長20年) 徳川秀忠 以心崇伝 13箇条 元和令
大坂の役により天下泰平の世となり徳川幕府の完全掌握が始まる。その第一歩がこの武家諸法度である。元々徳川家康が諸大名と交わした誓紙の3箇条に、黒衣の宰相と呼ばれた以心崇伝が10箇条を付け足し徳川秀忠が発布したものである。但し命令を出したのは徳川家康である。
武家に対する禁止事項が主な内容である。武家諸法度は別名『元和令』とも呼ばれる。
一国一城令
~キーワード~ 1615年(慶長20年) 徳川秀忠 土井利勝 安藤重信 酒井忠世
法令の発案は徳川家康であり、発布は徳川秀忠である。土井利勝、安藤信重、酒井忠世という重臣が連判し発布された。
これは大名の居城以外の城を全部廃城にするという命令である。
禁中並公家諸法度
~キーワード~ 1615年(慶長20年) 以心崇伝 17箇条 公家 天皇
武家諸法度と同時に発布されたもので、武家諸法度は武家に対する禁止事項を記したものであったが、これは公家や天皇に対する禁止事項などが主に記されている。
徳川幕府は武家だけでなく公家や天皇家までも掌握したのである。これは徳川家康、徳川秀忠、二条昭実の3名の連署を以て公布されている。
外様大名等の改易・徳川御三家の楚の構築
~キーワード~ 家康死後 福島正則 本多正純 松平忠輝 紀伊 水戸 尾張
大御所という徳川家康の死後、将軍徳川秀忠の単独の政が始まる。徳川家康の六男で徳川秀忠の弟に当たる松平忠輝を伊勢に流罪、
福島正則は水害により被害を受けた広島城の無断修理が武家諸法度に抵触するとし改易、減封・転封される。本多正信の長男本多正純も当初は徳川家重臣であったが自身の城の勝手な改築などを理由に言いがかりを付けられ出羽国で幽閉される。
改易の陰で徳川家を盤石にする動きもあった。後に『徳川御三家』と呼ばれる紀伊、水戸、尾張に3人の弟を配置した。
鎖国の楚の構築
~キーワード~ 長崎・平戸 外国船
中国の明の貿易船以外の外国船の寄港を長崎・平戸のみに制定。ここから後に鎖国へと繋がっていく。
隠居
~キーワード~ 1623年(元和9年) 徳川秀忠 徳川家光 大御所 二元政治
1623年(元和9年)に徳川秀忠は長男の徳川家光に将軍職を譲る。第3代将軍の誕生である。自身は徳川家康がそうだった様に同じく『大御所』として事実上の実権を握り、徳川家光と共に二元政治を展開する。
まとめ
徳川秀忠の将軍就任から隠居までの半分は徳川家康の政がほとんどである。徳川秀忠が将軍として先頭に立って政をしたのはたった8年程度である事を覚えておこう。
秀忠は主な合戦に関与したのは3回で、ほとんどが政に関わっている。
また徳川秀忠が将軍に就いているこの時期は日本の情勢の大転換期であると言える。その為、覚えるべき事、知っておくべき事が沢山あるので重視しておこう。