受験で出題される傾向が強い『織田信長が関わった主な戦い』
・はじめに
安土・桃山時代を築いた織田信長という乱世の寵児の人生は戦いの連続であった。
政治手腕にも長け、誰よりも先見の明があった織田信長を絡めた問題を出題するに於いて
出題頻度の高い戦いが7つある。その戦いをチェックしていこう。
1)桶狭間の戦い
~キーワード~
年号:1560年(永禄3年)
人物:織田信長、今川義元
場所:尾張・桶狭間(愛知県名古屋市、豊明市)
1560年(永禄3年)、現在の愛知県名古屋市と豊明市にまたがる尾張国桶狭間で、駿河国の今川義元と尾張国の織田信長が激突した。
今川義元は上洛の為に4万5千の大軍勢を率いて西へ進軍を開始。迎え撃つ織田信長の軍勢は僅か2千程度であった。
数で圧倒的に劣る織田信長は奇襲作戦に出る。足軽兵に農民の格好をさせ、今川軍をもてなすという理由で桶狭間に誘導させ休憩させた。
気の緩んだ今川軍に織田信長率いる2千の軍勢が怒涛の如く急襲する。今川軍は大混乱に陥り壊滅。その戦いの最中に今川義元は
織田信長の足軽兵に討ち取られる。この桶狭間の戦いは織田信長の名を全国に轟かせる戦いとなった。
2)金ヶ崎の戦い
~キーワード~
年号:1570年(元亀元年)
人物:織田信長、朝倉義景、浅井長政
場所:越前(福井県敦賀市)
1568年(永禄11年)に足利義昭を上洛させ15代室町幕府将軍に就かせた織田信長は事実上実権を握っていた。
新たな将軍に拝謁の為の上洛を諸国大名に促したが、越前の朝倉義景はいつまで経っても従わなかった。
織田信長はその態度を無礼とし、大義名分の元、1570年(元亀元年)朝倉討伐の為に北に進軍する。
金ヶ崎城付近の戦いの最中、妹・市より早馬が飛び込む。
北近江の浅井長政が突如裏切り織田軍の背後から進軍してくるとの情報を得る。浅井長政は織田信長の妹・市を妻としており
信長と長政は義理の兄弟の間柄であった。だが浅井家は代々朝倉家との同盟関係にあり、長政は苦渋の決断に迫られる。
長政は織田信長との兄弟関係よりも朝倉家との義を選択し、織田信長と敵対する事となる。
前に朝倉、後ろに浅井という挟撃に遭った織田軍は即座に撤退。その撤退も戦いながらの撤退であり容易ではなく何人もの戦死者
を出す(金ヶ崎撤退)。金ヶ崎の戦いから命からがら逃げ切った信長は改めて浅井・朝倉を討伐する決意を固める事となった。
3)姉川の戦い
~キーワード~
年号:1570年(元亀元年)
人物:織田信長、浅井長政、朝倉義景、徳川家康
場所:近江・姉川(滋賀県長浜市)
金ヶ崎撤退から数か月後、織田信長は同盟を結んでいた徳川家康と共に近江へ進軍する。一方浅井長政は朝倉義景と共に
織田・徳川連合軍を迎え撃つ。1570年(元亀元年)近江の姉川を挟んで両連合軍が激突した。戦いは織田・徳川連合軍の勝利。
浅井・朝倉連合軍はこの戦いを機に凋落の一途を辿る事となる。
※金ヶ崎の戦いとキーワードが似ているので戦いの場所で判断しよう
4)石山合戦
~キーワード~
年号:1570年(元亀元年)~1580年(天正8年)
人物:織田信長、本願寺顕如
場所:大坂・石山本願寺
石山合戦は様々な浄土真宗本願寺派の僧侶との戦いを総称したものである。越前、伊勢長島の戦い(一向一揆)等も
石山合戦の範囲内に入ると考えて良い。浄土真宗本願寺派の総本山が大坂の石山御坊であり、天下統一を目指す信長にとって
僧兵の存在は邪魔であった為、石山本願寺の完全制圧を望んでいた。だが決着は付かず、10年間の戦いの末1580年に
和睦している。
5)比叡山延暦寺焼き討ち事件
~キーワード~
年号:1571年(元亀2年)
人物:織田信長
場所:近江比叡山延暦寺(滋賀県大津市)
姉川の戦い以後、野田城の戦い・福島城の戦いにも敗れ敗走を続ける浅井・朝倉連合は比叡山延暦寺に立て籠った。
前年から勃発した石山合戦により織田信長は僧兵との戦いに手を焼いていた。そこで見せしめの為に逆賊を匿ったという名分の元、
延暦寺を焼き払い僧侶・女・子供を皆殺しにした。
6)長篠の戦い
~キーワード~
年号:1575年(天正3年)
人物:織田信長、徳川家康、武田勝頼
場所:三河・長篠(愛知県新城市)
1575年(天正3年)織田・徳川連合軍は武田勝頼の軍勢と激突した。日本一を誇る武田騎馬隊に対し織田信長は鉄砲隊を
3列に並べ、順番に撃っていく『三段構え』の戦法で相対した。三段構えの戦法はこの戦いの象徴であり、戦い方に於ける時代の変遷を
全国に知らしめた戦いとなる。武田騎馬隊は当時の新兵器である鉄砲を使った新たな戦い方に成す術もなく壊滅。
武田家名立たる武将が次々と戦死し、武田勝頼は追い込まれ天目山の寺で自害して果てる。この戦いは武田家の滅亡の引き金となった
戦いである。
7)本能寺の変
~キーワード~
年号:1582年6月(天正10年)
人物:織田信長、明智光秀、森蘭丸
場所:京都・本能寺(京都府京都市)
中国で戦いを繰り広げる羽柴秀吉の要請を受け、毛利征伐を自ら指揮する為に安土城から移動した織田信長は、一旦京都の本能寺に
宿泊していた。手勢は森蘭丸等の近習の僅か数人程度。同じく中国征伐の手伝いとして参戦するよう命令を受けていた明智光秀は軍を北へと向かわせてい
た。だが突如反転し本能寺へ向かう。
「敵は本能寺にあり」この号令と共に明智軍は織田信長の寝込みを襲う。不意を突かれた信長は本能寺に火を放ち自害する。
享年49歳。織田信長の最後の戦いである。
・まとめ
キーワードである赤文字を一まとめにして覚えておく事。どの部分が問題になっても他のキーワードから答えを導く事が出来るからである。
合戦名や事変名がキーワードとなる事も多い。そのためにまとめて覚えておく事が必要なのだ。
また記述式の場合、赤文字のワードが全て含まれて、ストーリーとして成り立つ文章であれば問題は無いと思われる。