勉強法 戦争は弥生時代に始まった。弥生時代で抑えておきたいポイント整理。

戦争は弥生時代に始まった。弥生時代で抑えておきたいポイント整理。

古代の人々の生活にとって、食べることの安定は現代では考えられないほど意味が大きく、

その生活様式や文化は全てと言ってよいほど、食を中心に回っていました。

そこで、水稲文化が始まり食糧事情がある程度安定してきた弥生時代の人々が、

ムラを形成し、やがてクニを形成する過程を追うことで、

日本古代史の重要なポイントを抑えておきたいと思います。

 

弥生時代のはじまり

一万年近く続いた縄文時代は、水稲耕作がはじまり農耕社会が起こったことで緩やかに終わりを迎えました。

縄文時代に代わる新しい時代を弥生時代と言います。

弥生時代は紀元前5世紀ごろから紀元3世紀までのおよそ800年を指して言いますが、

土器の変遷などから

前期(紀元前5世紀〜紀元前2世紀)(近年、紀元前5世紀〜4世紀を早期と呼ぶようになりつつあります)

中期(紀元前2世紀〜紀元1世紀)

後期(1世紀〜3世紀)

に区分されています。

水を張って稲を育てる水稲耕作は朝鮮半島よりもたらされたもので、その他青銅器や風俗、風習など

弥生文化は朝鮮半島の影響を強く受けています。

 

弥生文化の特徴

大陸の影響を受けた弥生文化の特徴は

◯農耕

◯金属器の使用

◯弥生式土器

等が挙げられます。

弥生式土器は高さ30センチを超える大きな壺形土器が特徴です。

弥生式土器は米の貯蔵、煮炊き、物を盛る目的などで使用されたため、

形もバリエーションに富んだものになっています。

しかし、弥生文化は縄文時代からの文化を引き継いだものも多く、

竪穴住居に住み、狩猟では骨角器や打製石器も使用されていました。

 

弥生時代の生活について

弥生時代は竪穴式住居に住んでいましたが、やがて食料の保存などの目的で高床式倉庫が現れます。

次第に住居も高床に移すようになり、20〜30棟の住居と倉庫が濠(ほり)で囲んだ中で生活するようになりました。

このような集落は環濠集落と呼ばれています。

環濠集落には防御施設が備えられ、外敵からの攻撃を防ぐ機能を持っていました。

また、高い丘陵の上に作られた集落も発見されており(高地性集落)、

これもやはり敵からの防御の必要性のためであると考えられています。

防御施設の存在は戦争が行われていたことを示す証拠であり、

弥生時代の遺跡から出土した人骨には、石剣や銅剣、銅戈などが刺さったものも見つかっています。

このような人骨は縄文時代の遺跡からはほとんど見つかっておらず、

日本での戦争は弥生時代に始まったと言われています。

 

弥生時代の道具

銅剣・銅戈・銅矛・鉄剣・鉄刀など青銅器や鉄器などで作られた武器や盾や兜などが、弥生時代の遺跡から多数出土していることも

戦争が多く行われたことを物語っています。

また、銅剣や銅戈、銅鐸などは祭器としても使用されたと考えられています。

これらの青銅器は多く出土した場所が異なっていました(九州・西日本・近畿地方以東など)

そのため、出土した青銅器の種類により、違う文化圏が形成されていたと考えられています。

弥生中期から使用が開始されたと考えられる鉄器は、銅よりも硬くて丈夫なため、

弥生後期には武器や農耕具など鉄器の使用が主流となっていきます。

 

ムラからクニへ。小国の起こりと邪馬台国

戦争はまた、小さな単位のムラが統合され、大きなクニへと変化していくきっかけでもありました。

弥生人もまた、文字を持っていなかったと考えられていますが、同じ時代の中国の歴史書からうかがい知ることができます。

(日本に関する最も古い記述は、『楽浪の海中に倭人あり、別れて百余国と為る』で有名な「漢書」の一節です。)

3世紀に書かれた「魏志」倭人伝には、当時の日本は戦争で国が乱れ(倭国大乱)、その乱れを収めるために国々は共同で一人の

女王を立てた、と記されています。

これが女王「卑弥呼」であり、卑弥呼が治めた30国ばかりの小国の連合が邪馬台国です。

「魏志」倭人伝に記述されている邪馬台国の位置について記述が曖昧なため、未だに九州説畿内説の対立が続いています。

同様に邪馬台国=ヤマトに関しても意見が分かれていますが、日本という国ができる土壌が弥生時代に生まれたことは

間違っていないでしょう。

 

 

おさらいです。

問)弥生時代に始まったものを3つあげてください。

 

 

 

答)弥生式土器の使用

  水稲農耕

  戦争

  鉄器の使用

  クニ

  などのうち、あてはまるもの3つで正解です。