縄文時代の生活とは?縄文時代は竪穴住居!
縄文時代は更新世、つまり氷河時代末期の1万3千年前から約2400年前まで
およそ1万年間、続いていたとされます。
縄文時代はいわゆる無文字文化ですから、縄文人が何を考え、何を信じ、どのように暮らしていたか
記録があるわけではありません。
けれど、遺跡や貝塚など土の中に埋もれていたものから、
当時の生活などはうかがい知ることができます。
ここでは縄文人の生活について解説してみましょう。
更新世から完新世へ〜縄文時代の生活様式
縄文時代以前の日本は、更新世(氷河時代)であり大陸と日本は氷でつながっていました。
そのため、マンモスやナウマン象、オオツノジカなどの大型獣を狩猟する生活を行っていました。
人々は大型獣を追って移動しながら生活していました。
ところが、完新世になって温暖化していくと、大型獣が絶滅し、イノシシやニホンジカなどの中型獣の時代がやってきます。
また、植物相も針葉樹が中心の森から、広葉樹や照葉樹が中心の植物相へ変化していきました。
広葉樹や照葉樹からは木の実が取れるため、一つの場所にある程度の長い期間、定住することが可能になりました。
また、氷が溶けることで入江に恵まれた海岸線も出現し、漁労が行われ、生活に変化が生まれるようになりました。
温暖化は縄文人の生活に多くの恵みを与えてくれたのです。
縄文時代の住居は竪穴住居
生活が安定してきた縄文時代の人々は竪穴住居と言われる家に住むようになります。
これは地面を円形や方形に掘り窪め、そこに複数の支柱を立てて骨組みを作り、
葦などの植物で屋根をかけた住居のことを言います。
その中央には炉があり、おそらく一世帯の家族が住んでいたのではないかと考えられています。
定住化から集落の形成まで
定住化できるようになった縄文時代の人々は、集落を形成するようになります。
集落の中央には広場があり、それを囲むように数単位の竪穴住居が環状におかれました。
また、集落には食料保存のための蔵穴群、墓地、ゴミ捨て場など共同生活のための様々な施設も発見されています。
一つの集落では20人から30人くらいの人々が生活していたと考えられています。
ただし、集落はひとつで閉じられたものではなく、交易や婚姻など別の集落との交流が盛んに行われていました。
例えば、新潟県の糸魚川で産出した翡翠が北海道の縄文遺跡から出土した例もあります。
縄文人の信仰
縄文時代の人々の生活は、常に自然の脅威にさらされていたため、また、自然とともに生活していたため
自然現象や自然物の中に霊的な存在を感じていました。
その霊的な存在を進行することをアニミズムといいます。
現在にも残されたアイヌ文化などはアニミズムのわかりやすい例です。
縄文人の信仰を示す遺物として、女性をかたどった土偶や男性を象徴的に表した石棒などがあります。
土偶は現在まで15000点以上が出土されています。作られた時代や地域によって形も様々です。
土偶や石棒の製作目的は諸説ありますが、豊穣を祈って作られたとされる説が多いようです。
縄文人の風習
縄文人には抜歯の風習がありました。
抜歯はイニシエーション、すなわち大人になるためや婚姻などのための通過儀礼のために行われたと考えられています。
抜歯の状態はその人の身分や出自を示したという説もあります。
文字を持たない人々にとって、外見を見るだけで身分や生まれた場所を示すことが必要だからです。
ちなみに抜歯は日本以外でも確認されている風習でもあります。
縄文人のお葬式
縄文人はすでに葬儀という概念を持っていたことが埋葬された遺跡からわかっています。
一般的な埋葬方法は屈葬と呼ばれるもので、地面に穴を掘り、遺体の手足を折り曲げて横たえて葬られていました。
東日本を中心に、墓穴の上に意志を敷いたり並べたりする遺跡も残っており、
それらが繋がって墓地全体が大きな石の輪を形作っている環状列石と呼ばれる形態のものもあります。
それでは、最後に復習として質問に答えてください。
問1)縄文時代に宗教が存在したことを証明する遺物は何と言いますか?
問2)縄文時代の住居の名称を答えてください。
問3)縄文時代の集落の構成要素を答えてください。
答
1)土偶、石棒
2)竪穴住居(または竪穴式住居)
3)竪穴住居、蔵穴群、墓地、ゴミ捨て場、広場など