冷戦で東西ドイツを分割したドイツ分割とは?|政治経済勉強法
ドイツの戦後:東部喪失と分割占領
1945年3月にドイツは連合国に降服し、その占領下に入りました。ここで、領土の変更が行われます。東側のポーランドの国境が、大きく西に動くことになりました。そのため、開戦以前の東に伸びた形から、現在の縦長の形にドイツは変えられてしまいました。このとき喪失したのは、プロイセン地域やシュレジェン地域です。プロイセンによって統一されて形成されたドイツが、二度の世界大戦を経て、その故郷の地を喪ってしまったのでした。
さらに、ドイツは連合国に占領されるのですが、やや特殊な形になりました。連合国が共同で統治することになったのですが、既にヤルタ会談で見られたとおり、勢力圏争いもあって連合国も一枚岩ではなく、完全に協力することは不可能でした。そのため、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4カ国がドイツ全土を4分割して占領することになりました。さらに、首都ベルリンも、4分割して占領することになりました。
東西ドイツの成立
これらの地域は別々に運営されていたのですが、アメリカがヨーロッパ再建のための資金拠出であるマーシャル・プランを発表すると、これを受け入れる体制を整える必要が出てきました。このため、アメリカ・イギリス・フランスによって占領されていた地域は徐々に経済的に統合されるようになりました。
しかしながら、ソビエト連邦としてはこれを受け入れることができません。せっかくのドイツを、西側の勢力圏にくれてやることなんてできませんから。そのためソビエト連邦占領地のみは統合されませんでした。
さらに、反発するソビエト連邦は1948年6月には西ベルリンを封鎖しました。西側の政策への反対を示すための実力行使です。ベルリンは東側地域にありますから、西ベルリンには物資が届けられません。そのため西側は航空機を使って必死に物資を供給しました。これをベルリン封鎖といいます。
1949年5月には、ついに東西の占領地域が別々の道を歩み始めます。西側占領地域はドイツ連邦共和国として、ソビエト連邦占領地域はドイツ民主共和国として、それぞれ設立されました。通称は西ドイツ、東ドイツです。この構造はこのまま解決されることなく、1955年にはいずれも独立国となりました。
冷戦の最前線、そして崩壊の引き金
東西に分割されてしまったドイツは、文字通り、冷戦の最前線となりました。西ドイツ以西は西側諸国、東ドイツ以東は東側諸国として、異なる陣営に所属することになりました。領域で見ても、また軍事配備の点からも、まさにここが東西冷戦の最前線となったのでした。
また、ドイツこそが連戦崩壊の引き金でもありました。次第に経済力の差が大きくなっていく東西ドイツの状況を見て、東ドイツ国民は西ドイツへの移住を希望しました。当然ながら叶えられるはずもないのですが、圧力は日増しに高まり、ついにハンガリー・オーストリア経由での移住が出来るようになり、また東西ベルリンを隔てていた壁も崩壊します。これこそが冷戦終結の端緒でもあったのでした。
例題
次のうち、東ドイツに属するのはどれか?
1.ハンブルク
2.ボン
3.ポツダム
4.フランクフルト
解答解説
東ドイツに属するのは、3のポツダムと4のフランクフルトでした。他には、ドレスデンやライプツィヒが有名ですね。一方ボンは西ドイツの首都です。西ドイツの都市はほかに、ブレーメン、ハノーファーなどです。
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