ペルシア戦争の影響と戦後の参政権拡大について|世界史勉強法
はじめに
ペルシア戦争というのは、3回に亘って行われた戦争だというのは知っていますよね。
今回はその内容について説明していくのですが、その第1回目のペルシア戦争は、地中海で嵐が発生し
ペルシアの軍艦が壊滅してしまい、仕方なく延期することになってしまったので、第2回から書いていきます。
■第2回ペルシア戦争
ペルシア軍は、マケドニア地方を征服した後、陶片追放でギリシアを追放された元僭主であるヒッピアスに案内され
ギリシア東部にあるマラトンに上陸しました。
※陶片追放・・・古代ギリシアのアテネで僭主の出現を阻止するために、市民が僭主となる可能性のある人物に投票し、
選ばれた者は国外追放されるという制度。
ギリシア軍のマラトンでの戦いを指導したミルティアデスは、1万人の重装歩兵集団を従え
圧倒的な強さを誇るペルシア軍を倒しました。
これは余談になりますが、このマラトンでの戦いで勝利したというのを一人の兵士が武装した状態でアテネまで走って報告し
その後絶命したという逸話があります。
この話が、後のオリンピア競技会でアテネ~マラトン間を走る長距離競技の始まりとなっていて、今のオリンピック種目である
マラソンのルーツであると考えられているそうです。
■第3回ペルシア戦争
第3回の遠征は、マラトンの戦いで敗れたペルシア側が計画し、紀元前480年にダレイオス1世の後継者として王となった
クセルクセス1世が20万人もの兵士を引き連れてギリシアを攻めました。
この戦争では、ギリシアとアケメネス朝ペルシアの両方が全総力をあげて戦うことになります。
侵略が開始した年に、テルモピレーの戦いが勃発し、スパルタ王のレオニダスは重装歩兵を従えて
強豪なペルシア軍と戦いますが、あっけなく全滅してしまいます。
負け続ける中で、アテネの指導者であるテミストクレスが、紀元前408年にギリシア連合艦隊の全ての海軍力を使い
サラミス湾でペルシア軍と対決しました。
ギリシア連合艦隊は、艦隊の数では負けていたものの無事に勝利を収め、ペルシアのクセルクセス1世は戦う意力を無くしてしまうのです。
この時の戦いで使用された軍艦は、たくさんの漕ぎ手が必要となる三段櫂船というものだったので、アテネはこの漕ぎ手として
武器が買えず戦争に参加できなかった無産市民と呼ばれる人たちを集めました。
無産市民たちの戦争での活躍が素晴らしかったため、戦後に市民の政治的発言権が増えていき、その後の参政権の拡大へと繋がったことが
民主制発展の大きなきっかけとなったのです。
そして、翌年の紀元前479年にプラタイアの戦いで、アテネとスパルタで形成された連合軍がペルシア陸軍を打ち破り、ペルシア戦争は幕を閉じました。
■ペルシア戦争終結
強力なペルシアの威力に対抗するために、ギリシア側はアテネを中心とした軍事同盟としてデロス同盟を結びます。
それから紀元前449年にカリアスの和約がアケメネス朝とデロス同盟との間で締結されたことによって、ペルシア戦争は完全に終結したのです。