ウィーン体制!メッテルニヒによる弾圧について
■ウィーン体制とメッテルニヒ
ヨーロッパ各国の支配者層が、自分たちの権力を取り戻し手堅く政治を行おうというウィーン体制にとって
対抗する自由主義やナショナリズムは、非常に煩わしい存在でした。
そこに登場したのが、メッテルニヒです。
彼は、ウィーン体制の主導者的存在で、多民族国家のオーストリアの宰相だったので
その権力を使って、これらの思想を支援する運動を徹底して弾圧していったのです。
■各地の抵抗運動
≪ブルシェンシャフト(ドイツ)≫
ブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)は、1815年にドイツの統一と憲法制定を望み、イエナ大学で結成した学生組合になります。
1817年に、宗教改革300年祭を記念した大集会がヴァルトブルク城の近くで開かれ、自由主義とナショナリズム運動の勢力が増したのです。
※マルティン・ルターが95箇条の論題を掲示した1517年に、宗教改革がはじまったということも頭に入れておきましょう。
これに対してメッテルニヒと各国の君主たちは、この運動を弾圧するため1819年にドイツ連邦議会でカールスバート決議を既決し
言論統制や大学監視を行うことで、ブルシェンシャフトを強制的に解散させたのです。
≪カルボナリの蜂起(イタリア)≫
19世紀に南イタリアで結成された、炭焼職人の組合にカモフラージュした秘密結社が、カルボナリ(炭焼党)です。
急進的な自由主義者で形成されたカルボナリは、分裂状態にあったイタリアの統一と独立を目指し、立憲自由主義運動を行い
1820年にナポリ、翌年の1821年にピエモンテで武力蜂起しましたが、メッテルニヒが持つオーストリア軍の弾圧によって崩壊してしまいました。
≪立憲革命(スペイン)≫
1820年に、ウィーン体制で復活を果たしたブルボン朝が支配するスペインでは、軍の指導者であるリェーゴ大佐が
憲法を取り戻すために革命を起こしました。
これによって、1812年に制定されたカディス憲法を無事復活させることが出来ましたが、この革命が拡大することを懸念した神聖同盟が
ヴェロナ会議でフランス軍を送り込むことを決め、やがて鎮圧されてしまうのです。
≪デカブリストの乱(ロシア)≫
イタリアと同じように、ロシアでも秘密結社が1825年12月に自由主義貴族による武装蜂起を起こしました。
この反乱は、ロシア語で12月を意味するデカーブリからデカブリストの乱と名づけられました。
ナポレオン戦争を経験していた彼らは、西ヨーロッパの発展状況を知り、ロシアがどれほど遅れているのか思い知らされたのです。
なので、フランスなどから得られた自由主義思想を根底に置き、憲法の制定や農奴制、ツァーリズムの廃止などを目指して反乱を起こしましたが、
これもロシア皇帝のニコライ1世が鎮圧してしまいます。
こうして、1810年代~1820年代にヨーロッパ各地で発起したウィーン体制に対する数々の抵抗運動は、メッテルニヒと各国の君主たちの権力で
全て抑え込まれてしまったのです。