ハプスブルク家が勢力を持った理由は政略結婚?|世界史勉強法
一言で言うと政略結婚で勢力が大きくなったんだよ。
スイスを追われてオーストリアに拠点を持ったハプスブルク家はドイツに勢力を持ち、早い内に神聖ローマ帝国の王位を受け継ぐことによってほぼ世襲化することに成功した。
しかも、ハプスブルグ家は多産系なんだ。
どうしても長男しか王位を継げないから、弟や女性たちは他の国の王家と婚姻関係を結び、その息子が王位を継ぐという風に、
ハプスブルグ家はネーデルランド、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国に勢力を広げることができたんだ。
そうすればわざわざ戦争でたくさんの犠牲を払わなくても、勢力源GETと言うことになるんだ。
いつからかハプスブルク家にはこのような名言が生まれた。
「戦争は他の国に任せ、幸福なオーストリアよ汝は結婚せよ」
それに、スペイン王国は中南米に植民地を持っていたから、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたし、
カール5世の弟のフェルディナンド1世がハンガリー王とボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大したんだ。
しかし、スペイン王国は1588年のアルマダの海戦でイギリスに負けてからは次第に勢力が衰え始め、
1700年には虚弱なカルロス2世の死によって断絶してしまったんだ。
しかも1740年のオーストリア継承戦争でプロイセンにシュレジェンを取られてからは維持するのに一苦労だし、
フランス革命が起こってからはヨーロッパ中に革命の嵐が吹き始めてたくさんの民族の上に立つオーストリアの勢力は衰え始めたんだ。
1867年にオーストリアとハンガリーは二重帝国となったんだけど、フランツ・ヨーゼフ1世の王妃エリザーベトと息子ルドルフがなくなったのを期に、ハプスブルク家も民族と自由と動きを無視できなくようになり、
1914年にサラエボでオーストリア皇位継承者のフェルディナンドとゾフィー夫妻がセルビア青年に暗殺される事件が起こったんだ。
1916年にフランツ・ヨーゼフ1世が亡くなって、1918年にオーストリア=ハンガリー二重帝国は滅亡した。
ハプスブルク家はかつての栄華はないけど、今でもオーストリア国民に愛されてるんだ。
しかも、ハプスブルク家が行った婚姻政策の道具となった弟や女性たちは嫁ぎ先でも大体は大変だけど、けして不幸ではなかった。