応仁の乱は戦国時代の発端!?応仁の乱の原因と乱による影響とは…
戦国時代の騒乱の発端となった応仁の乱(1467~77)。
京都を舞台に繰り広げられた10年に及ぶ戦乱…。応仁の乱についてまとめていきます。
■応仁の乱はなぜ起きた?
室町幕府8代将軍足利義政には嗣子がなく、出家していた弟の義視を還俗させ後継者としました。
しかし、その後、義政夫人の日野富子が義尚を生み、将軍の後継問題が生じました。
また、管領家の畠山・斯波の両家でもそれぞれ家督争いが起き、
分かれた両派はそれぞれ、対立していた細川勝元、山名持豊(宗全)のどちらかを頼り、
勝元は義視を、宗全は義尚を支持し、幕府内は完全に二つに割れました。
■応仁の乱始まる!
1467年、畠山家内紛の戦闘を皮切りに両者は京都で戦端を開き、応仁の乱が始まりました。
守護大名たちは、細川方(東軍)・山名方(西軍)のいずれかに参加し、
東軍24か国16万人、西軍20か国11万人が京都に集まり戦いました。
長引く戦乱の中、勝敗がつかないまま勝元と宗全は病死し、これを機に守護大名は領国に帰り、京都での戦闘は終息しましたが、戦乱はかえって全国に波及しました。
■応仁の乱の結果
応仁の乱の結果、京都とその周辺は焦土と化し、将軍の権威は地に落ち、幕府の命令のおよぶ範囲は京都周辺だけとなりました。
地方の荘園は京都の荘園領主に税を納めなくなり、天皇・公家・寺社は衰え、地方へ下る公家や僧侶が増え、義政の東山山荘に代表される京都の東山文化が地方へ伝播しました。
国人・地侍とよばれる層が台頭し、土一揆が頻繁に起こり、足軽が横行し、下の者が上を倒す「下剋上」の世の中になり、時代は戦国へと突入していきます。
後の徳川氏の前身である三河の松平氏も、この国人層でした。