【日本史受験者必見!】仏教公伝と仏教が日本に与えた影響!
結論としては、仏教公伝(仏教伝来)そのものは、さほど大きな意味を持ちません。
■仏教公伝の経緯
西暦552年(538年説もあり)に、朝鮮・百済から当時の日本(倭国)に公的に仏教が伝えられたとされます。
しかし既に、渡来人などを中心に私的な信仰としては伝来していたと考えられるためです。
(そのため、かつては「仏教伝来」とされていましたが、今は一般的に「仏教公伝」とされます)
ただしその後、仏教は徐々に日本社会に浸透し、
特に中世以降、日本の社会・思想に大きな影響を与えました。
北インドで生まれた仏教は、中国経由で6世紀初頭には朝鮮・百済に本格的に普及します。
百済と交流の深かった日本にも仏教徒の百済人が多く移住し、
私的な寺院などが建設されるようになりました。
そんな中、百済王から当時の欽明天皇に仏像が贈られ、
公的に仏教が伝えられることとなります。
百済としては、当時勢力を伸ばしていた新羅に対抗すべく、
日本との交流を深める目的がありました。
さらに、
仏教を信仰していた中国南朝・梁の武帝の援助を引き出すため、といった事情もあったと考えられます。
■仏教公伝のその後
とはいえ、
公伝後もすぐには日本に仏教は浸透しませんでした。
物部氏・中臣氏など、朝廷内で神道の神事に関わる一族にとって仏教は既得権の侵害であり、受容に反対しました。
一方、
渡来人との関わりが深かった蘇我氏は、国際情勢を鑑みて仏教を受け入れることを主張しました。
天皇は蘇我氏に仏教の私的な信仰を認めますが、
疫病の流行を理由に物部氏は大規模な仏教迫害を行います。
寺を破壊し、尼僧を裸にして鞭打ちにするなどしたそうです。
とはいえ、
近年になって物部氏の居住跡から氏寺の遺構が出土したこと等で、
これらの対立は仏教を巡る対立よりむしろ、
蘇我氏と物部氏の勢力争いの一環と考えられるようになりました。
その後、厩戸皇子らを味方につけた蘇我馬子が丁未の役(587年)によって物部守屋を滅亡させ、
以後、仏教の受容が進みます。
しかし。
この時代は、仏教を信奉したのは朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、
まだまだ一般には普及しませんでした。
奈良時代に入ると、仏教の力によって国家を安定させようという「鎮護国家」の思想のもと、
聖武天皇により東大寺の大仏が建立されます。
諸国には国分寺・国分尼寺が設置され、
唐より鑑真和尚が招かれて経典を教えたりもしています。
平安時代になると最澄・空海により密教が導入されますが、
これは法力で奇跡を起こすという一種ファンタジー的「魔術」の世界でした。
やがて、
律令体制が崩れ社会不安が増大したことで、
あの世での幸福を願う浄土信仰が広がります。
例えば摂関政治で権勢を極めた藤原道長も、
晩年は出家して宇治の平等院に籠もって毎日祈り、極楽往生を夢見ていました。
■鎌倉仏教の興りと発展
さらに、
「釈迦の死後1000年経つと仏教が正しく行われなくなり、誰も救われなくなる」という末法思想も人々の間に広まります。
この浄土信仰・末法思想を受けて、
法然・親鸞の念仏、道元・栄西の禅など日本独自の教えである鎌倉仏教が興ります。
鎌倉仏教が発展したことで、
仏教は全国の武士(禅)や庶民階層(念仏)へと普及・定着することとなります。