前九年合戦と後三年合戦はこうして起きた! 後三年合戦は壮絶な○○喧嘩!!!
前九年合戦と後三年合戦は合わせて「奥州十二年合戦」とも呼ばれる、大きな合戦です。
■前九年合戦の概要
平安時代の中ごろに岩手県にいた豪族安倍氏。
その勢力を畏れた朝廷が安倍氏の討伐を試みました。
最初に派遣した藤原登任は数千の兵を出しますが、安倍氏に敗北します。
その後、源頼義が派遣され安倍氏の討伐を目指します。
頭領であった安倍頼時と源頼義・義家親子の戦いは9年にわたって続き、これが前九年合戦と呼ばれています。
安倍頼時の娘の夫であった藤原経清もこの戦いで戦死したとされており、娘は7歳になる息子を連れて
隣の秋田で力を持っていた清原氏の息子武貞と再婚します。
■後三年合戦の概要
それから20年・・・
今度は清原氏の内部で跡継ぎ問題が発生します。
真衡・清衡・家衡の3兄弟は代々の風習に従い真衡が継ぎました。
真衡の結婚のお祝いに前九年の役でも活躍した長老がお祝いに来ましたが、
真衡は碁に夢中で長老を無視していました。
怒った長老はお祝いの土産物を庭に投げ捨て帰ってしまいます。
その態度に不満を持った真衡は長老の討伐に向かいます。
長老は前から真衡と仲が悪かった弟の清衡と家衡に声をかけ、
長老を討伐しに真衡が出兵している間に城を討つように言います。
2人はこれに賛同しますが、情報が漏れ真衡が2人を討とうとしたため諦め自分の領地へと戻ります。
2人があきらめたと考えた真衡はまた長老の討伐に向かおうとしますが、
自分のところの兵を置くだけでなく、陸奥守の義家に加勢を頼みました。
不在時に攻め入った清衡と家衡ですが、返り討ちにあい、義家に降伏します。
その出兵の途中、真衡は病のため亡くなってしまいます。
兄の土地を2人で分けましたが、その分け方が気に入らなかった家衡が今度は清衡の館に攻め込みます。
清衡一族や妻子はこの戦いで殺されてしまいましたが、清衡だけは生き延びました。
その後、清衡は義家の助けを借りて家衡を攻めますが敗北。
家衡は難攻不落と言われていた秋田県横手市の金沢柵に移ります。
清衡と義家の連合軍は苦労しながらも兵量攻めで、家衡を陥落させました。
その後、清衡は実父の名を名乗り、「藤原清衡」として奥州藤原氏初代当主となりました。
■まとめ
つまり、前九年合戦は
朝廷が安倍氏の勢力を弱めるために行った戦いで、
後三年合戦は
土地を巡る壮絶な兄弟げんかという事がわかります!
安倍氏・清原氏が滅んで、奥州藤原氏が誕生した流れがわかりましたか?