摂関政治とは!平安時代の摂関政治を分かりやすく解説!
摂関政治とは…?みなさん説明できますか?
今回は、摂関政治〜摂関政治の終わり(院制の始まり)を説明したいと思います。
摂関政治とは何か、しっかり理解して帰りましょう!
■摂関政治の始まり
天皇が幼少時や病気、女性の場合に政治を行う人を摂政といいます。
天皇が成人後も代わりに政治を行う人を関白といいます。
そもそも、摂政は天皇家から任命されていたのですが、866年藤原北家の藤原良房が人臣として初めて摂政に任命されました。
その方法は自分の娘を皇室に嫁がせて、跡継ぎを生ませて、外祖父となり権力を握るというものです。
具体的に言えば、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、良房は天皇の外祖父となった。
これが摂関政治の始まりです。
摂関政治時代の天皇が怪しい人はこちらを確認!
■摂関政治の終わり
1068年、後三条天皇が即位しました。後三条天皇は藤原北家を外祖父に持たない役170年ぶりの天皇です。
そのため、藤原家は権力を振るえなくなりました。
後三条天皇の息子の白河天皇も外祖父に藤原北家を持たない天皇で、息子が幼いときに天皇の地位を譲り渡しながら、政務を行ないました。1086年のことです。
これが摂関政治の終わりで、院政の始まりです。
●問題
この摂関政治の行われた時期の正誤問題は試験によく出ます。
下記のうち正しいものは
①藤原冬嗣は藤原南家で摂関政治の足がかりを作った。
②藤原道長は摂政になったが関白にはならなかった。
③摂関政治期に摂政関白がいなかった時期がある。
④藤原頼通の娘は天皇家に嫁いだが男児は生まれなかった。
●正解は…?
正解は②と③と④
●解説
①について、
冬嗣は北家。他に京家、式家がある。
②について、
摂政も1年足らずで辞職して、頼通に譲っている。
③について、
醍醐天皇、村上天皇のときに摂政関白はいなかった。延喜天暦の治と呼ばれています。
④について
そのため外戚関係が保てなくなった。
※ちなみに
摂政の歴史は古く、聖徳太子は推古天皇の摂政となっております。
近代では昭和天皇は大正天皇の摂政をしております。