勉強法 悲しい戦争・・・戊辰戦争ってなんで必要だった?

悲しい戦争・・・戊辰戦争ってなんで必要だった?

■戊辰戦争とは?

新政府軍と旧幕府軍の16ヶ月に渡る戦争のことです。

新政府軍が、徳川方をとことんやっつけた戦いですね。

では、1つずつ見ていきましょう!

 

■戊辰戦争はなぜ起こったのか?

端的に言うと、鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の発端です。

では、鳥羽・伏見の戦いとはなんでしょうか。

この頃には幕府はありませんからそもそも倒幕という概念はないはずです。

慶喜公は、大政奉還することにより徳川家や徳川の臣下たちを守ろうと思っていました。

実際、大名制は廃止されていなかったので、幕府がなくなったとしても、

慶喜公は800万石と最も大きな勢力の大名になります。

しかし、その後の会議(小御所会議)で慶喜公の減給が決定されたのを不服とした旧幕府軍が武装蜂起します。

これでは、徳川の力がまだまだ強かったんですね。

そこで、兵を挙げてとことん潰そうとしたのが薩摩藩と長州藩です。

この鳥羽・伏見の戦いにより倒幕軍の優勢が決定的なものになります。

 

■戊辰戦争の流れ

鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の発端だということは上で説明しました。

 

その後、慶喜公は江戸に帰り、寛永寺というところで謹慎し、天皇に反抗する意志がないことを示します。

しかし、会津藩は天皇に恭順することは認めたが、新政府のことは認めず武装をとかなかった。

これもどんどん会津藩を筆頭に、新選組などが悲しい戦に向かっていかなくてはならないことにつながります。

 

さて、当時の旧幕府軍のTOPは勝海舟でした。勝海舟と西郷さんが話し合って江戸城を明け渡します。

江戸城無血開城です。

両英雄の活躍がなければ何千の命が消えていったと言われています。

 

流れとしては徐々に北上していくと覚えて下さい。

鳥羽伏見で始まり、その後江戸、東北、最後は函館です。

 

では東北での戊辰戦争を見てみましょう。

 

■奥羽越列藩同盟~箱館戦争

会津藩は鳥羽・伏見の戦いの時に朝敵にさせられました。朝敵とは天皇に剣を向けたという意味です。

当時の会津藩の藩主は、松平容保です。

若いですが、義に熱く、徳川のため、自分の家臣のためにたたかい続けます。

そんな会津を見捨ててなるものかと東北を中心とした反新政府同盟がむすばれます。

それが奥羽越列藩同盟です。

結果的には、奥羽越列藩同盟も新政府軍に破れ、最後は函館まで逃げ落ちていきます。

 

率いるは、新選組副長土方歳三と榎本武揚です。

この箱館戦争を最後に戊辰戦争は終結しました。

ちなみに、箱館戦争と書く時には、函館ではなく箱館と書きますので注意してね!

 

■余談・・・

余談ですが、1986年に長州藩のいち都市であった萩市が会津若松市に対して戊辰戦争時のことを

「120年も経過したので水に流して楽しくやろうぜ!」

っていったんですけど、会津側はこれを、

「まだ120年しか経っていない」として拒絶しました。

数年前にも萩市の市長が会津の市長に握手を求めましたが会津はこれを拒否!

 

おそらく市長などのおじいさんやひいおじいさんから当時の悔しさなどを聞いて育ったので根深く残っているんでしょうね。

 

■問:江戸末期、京都守護職や京都所司代などを任され、新選組を抱えたりと幕末期における徳川幕府のために多くの貢献をした藩はどこか。また、その当時の藩主は誰か。

 

答え:会津藩 松平容保(まつだいらかたもり)

解説:江戸末期の京都守護職と言われたら会津藩のことです。新選組を雇って、不逞浪士を捕縛や処刑していたのも会津藩です。

    今でいう警察組織ですね。対する、薩長を中心とする国をひっくり返そうとする言わばテロリストとの戦いが明治維新です。

    ちなみに、その時にできた言葉が「勝てば官軍」です。豆知識として覚えておいてね!

 

会津藩はとても悲しい物語があり、悲しみの戦史として数多くの逸話が残っていますので興味がある方は是非!