日本を動かした攘夷ってなに?尊王攘夷とは何がちがうの!?
■攘夷と尊王攘夷
江戸末期、当時日本は大事件が起こりました。ペリーが浦賀沖にやってきたのです。
これにびびった幕府の対応はなんとも煮え切らないものでした。
それに端を発したのが攘夷運動です。
攘夷の意味は、夷狄(いてき、外国人の意)を打ち攘う(うちはらう、追い出す、やっつけるの意)という意味です。
即ち、外国勢力を追い払って自分たちだけでやっていこうというものでした。
当時「国」というと、「藩」を指します。
国元へ帰る=藩へ帰るということです。
また、日本というのは今で言う世界みたいなもので、黒船がやってきたのは宇宙人が堂々と大きなUFOでやってきたくらいの衝撃だったんでしょう(笑)
そして、そんな宇宙人(アメリカ人)の巨大なUFO(黒船)にびびった幕府(国際舞台における首脳陣)に対して不満をぶちまけていったのが攘夷運動です。
尊王攘夷とは、言葉の通りで、攘夷思想にプラスして天皇を敬おうっていうものです。
■攘夷と開国
当時の思考には大きく分けて2つ有りました。
一つは、上で書いている通りの攘夷派。
そしてもう一つは開国派です。
開国派とは、幕府の方針に従っていこうというものです。
ただ単に、外国人を受け入れるか、追い払うかの議論だったのがいつしか、徐々に反する立場になっていきます。
ちなみに、佐幕派で天皇を敬う考えは公武合体といいます。
ここで、よく勘違いをしやすいことを言っておきますが、攘夷 VS 佐幕でありませんし、
尊王 = 倒幕でもありません。そもそも、比較する対義語ではないんですよ!
要は幕府を倒す「倒幕思想」にしても、幕府を存続させていく「佐幕思想」にしても「尊王」ありきなのです。これがまず大事なポイントです。
はじめは、広義での攘夷として志士たちは思想を巡らせていき、倒幕にたどり着いたわけですが、
情報の早い幕府や、一部の志士たちは、攘夷の無意味さに気付いていきます。
なので、明治維新とは、攘夷 VS 開国 でも佐幕でもなく、あくまでも倒幕 VS 佐幕 の権力争いなのです。
ここは明治維新の概要にてみんなが大きく勘違いしている箇所ですのでしっかり覚えましょう!
■分裂していく日本
はじめは上記の通りのような小競り合いだったのがいつしかお互いが立場を大きくわけていきます。
攘夷には、尊王ということばがつき、開国派には佐幕という言葉が重なってきます。
佐幕とは幕府を補佐して盛り上げていこうというもの。
これらは、思想で言うとこのような端的なものになりますが、派閥として考えると敵対する関係になっていくんですね。
攘夷とは、倒幕思想の人たちも多かったわけだからそうなるのも当然ですよね。
■攘夷派と開国派のメンバー
有名な人たちだけですけど、入試にも名前がでてくるので頭にいれておきましょう!
◯攘夷派
木戸孝允(長州藩、当時は桂小五郎)
高杉晋作(長州藩、騎兵隊を組織)
吉田松陰(長州藩、松下村塾開祖、安政の大獄で処刑)
久坂玄瑞(長州藩、蛤御門の変で戦死)
伊藤博文(長州藩、初代総理大臣)
大村益次郎(長州藩、軍学者、新しい戦い方を取り入れた)
西郷隆盛(薩摩藩、西南戦争で切腹)
大久保利通(薩摩藩、版籍奉還や廃藩置県などを行った)
武市瑞山(土佐藩、土佐勤王党盟主)
岡田以蔵(土佐藩、人斬り以蔵の別名も)
池内蔵太(土佐藩)
中岡慎太郎(土佐藩)
坂本龍馬(土佐藩、龍馬の場合は個人的な目的のための倒幕が強かった。世界を相手に貿易したかったんだよ!)
でも、、、
今ある政府を壊そうなんてまるでテロリストみたいじゃない?(笑)
結果として今の日本に我々はいるわけだからあまり感じないかもしれないけれども。
時々歴史を考えるとそう思う思うことがあるんですよね(笑)
その攘夷の倒幕派の人たちを捕えたり処刑する新選組や京都見廻組は警察組織ですよね。
結果的に幕府を倒し、戊辰戦争に繋がっていくわけです。
その時にできた言葉が、「勝てば官軍」
勝った方が正しいという言葉。
これ以上は僕の個人的な想いになっていくのでこの辺(笑)
最後に簡単な問題を出してみますね!
■問:攘夷運動が盛んになっていく中で、長州藩と薩摩藩がその先頭に立っていったが、長州藩は下関を通る外国船を次々に砲撃していった。対して、薩摩藩の島津久光が大名行列の最中にイギリス人数名を殺傷した事件をなんというか。
答えは、生麦事件です。
これもよく出るので覚えておいてくださいね。
この事件の背景には様々な問題が有りますが、これの報復が薩英戦争です。この辺のことはひとくくりにして覚えておきましょう!