自由民権運動ってどういう運動?板垣死すとも自由はしなず!
■「はじめに」
教科書で出てくる自由民権運動とは確か数行で終わりましたよね。しかし後の日本にとても大きな影響を与えた出来事でもありました。そのため、出題頻度も高く、多角的に聞かれることも多いのでわかりやすく覚えやすく説明していきますね。
ちなみに、歴史を覚える上で一番大事なのは、なぜそうなったかを少し前に遡って覚えるのが一番です。例えば、明治維新はなぜおこったのか?もちろん時代の変化や、黒船の影響が事の引き金になったのは間違いないでしょう。黒船が来た時、日本は大砲撃ったんですが、あたりもしなかったくらい日本国は遅れていました。そこで、焦って西洋の文化を取り入れよう!というのが、開国派。いやいや、今のままとりあえず耐え凌び、外国人をやっつけろ!というのが攘夷派です。
さて、この攘夷派と開国派に一旦はわかれたわけですが、実はこれ、関ヶ原の戦いからの確執があるんです。端的にはなしますと、関ヶ原で負けた大名たちは外様大名にされたか、もしくはお取り潰しにされてしまったわけです。中でも、特にしつこく幕府を恨んでいたのが、毛利家の長州藩と、島津家の薩摩藩です。結果的に彼らは倒幕を成し遂げてしまうわけですからおよそ250年に渡る積年の恨みを晴らしたわけですね。
このように、ひとつひとつの事柄が織り込まれ、次の時代を作っていくのが日本史です。ただただ言葉をつめ込んだり、暗記するよりもずっと覚えやすいでしょう(笑)
■「自由民権運動」ってなに!?
少し脱線しましたが、自由民権運動とは簡単に言うと、議会政治の実現を目指したのが自由民権運動です。「議会政治」とは、選挙で選ばれた国民の代表者が国会と言う場所で法律を作ったり、予算をくんだりというような国政を行うことを言います。
ちなみに、「議会政治」との対義語でよく使われるのは「独裁政治」です。頭の片隅にでも入れておいて下さい(笑)
独裁政治とは、一人のトップが右って言ったらそうなるのが独裁政治ですね。対して議会政治は、みんなで決めたものをより良いものにさらに議論、精査して推し進めていくことです。
では、なぜ自由民権運動は加速していったのか説明していきます。
■「板垣退助を知る」
自由民権運動といえば板垣退助ですね。土佐藩(現高知県)の出身で、若いころを乾退助なんて言います。坂本龍馬と同じ出身ですが、面識はあまりなかったと言われています。しかしながら、龍馬の脱藩の罪を免除する際に奔走したなどの記録が残っています。
さて、彼が自由民権運動のトップに立つわけですが、当時彼は「征韓論」で岩倉具視に負け政界を去っています。簡単に言うと、自分の実現したいことが通らなかったわけです。征韓論に敗れた板垣は西郷隆盛などとともに、「愛国公党」を立ち上げます。これは、「民撰議院設立建白書」を提出した機関です。「民撰議院設立建白書」とは、板垣や、西郷、後藤象二郎らが政府に対して最初に民選の議会を開設するように訴えた建白書です。これが自由民権運動の発端と言われています。
ここまではいいでしょうか。よく出るワードとしては、板垣退助が中心に、西郷隆盛も加わった、征韓論で敗れた板垣は、愛国公党が日本で初めての、議会政治を訴えた、などです。
要するに板垣は、当時進んでいた英国の国政のあり方を日本に取り入れようとしていた、ということが自由民権運動であり、その発端は、征韓論で破れた板垣が「民撰議院設立建白書」を提出したことです。
これにより、武士は刀で政府に異を唱えるだけではなく、言論でも政府と戦うことができるようになりました。
■「第一次自由民権運動:士族民権」
自由民権運動は、大きく分けて3段階に分けて考えることができます。少しだけ掘り下げてみましょう!
自由民権運動がこの後激化していき、今の日本の政治の礎の一つとなっていくわけですが、この自由民権運動は実は武力臭が非常に強いものでもありました。当時の日本は、戊辰戦争が終わり、新政府となり落ち着いてはいたものの、それに納得出来ない人たちも多くいました。急激に武士が不要になっていった時期です。その、武士の不満を一手に担い、反乱を起こしたのが有名な西南戦争です。自由民権運動の支持者や協力者もこの古い時代の武士たちでした。この頃の言葉では「士族」といい、彼らが中心となっていたことを「士族民権」と言います。士族たちは武力蜂起しかできなかったので、武力闘争になっていってしまったわけです。これは、西南戦争あたりまで続きます。みんなの不満を抱えたまま西郷さんは矢面に立ったわけですね。
■「第二次自由民権運動:豪農民権」
さて、この頃農村部の豪族たちが反乱を起こします。当時の言い方では「豪農」なんていい方をします。これは地租改正に端を発するものですが、簡単に言うと豪族たちの土地を国有にしようとしたんです。当然豪族たちは反対しますよね。そこで自由民権運動の主旨のひとつである、言論の自由などを求め自由民権運動が豪農達によって広まっていくわけです。この頃を「豪農民権」と言います。武士は、西郷に賭け、農民や一般市民などは、板垣に助けを求めたんですね。
■「第三次自由民権運動:大同団結運動」
この後、自由民権運動各派が帝国議会の設立を求めた「大同団結運動」が起こります。帝国議会は、大日本帝国憲法(明治憲法)発布から日本国憲法への改正まで設置されていた日本の議会である。公選の衆議院と非公選の貴族院から成る。ちなみにこの議会は、約60年に渡り機能していきます。現在の国会の基礎となってもいます。
最後にまとめます。
■「最後に自由民権運動を簡単に説明すると・・・」
- 自由民権運動の骨子としては、征韓論で負けた板垣、西郷vs岩倉の争いから始まった。
- 最初は士族(元武士)が中心となり推進していった。
- 武士(士族)は西郷を頼り西南戦争、農民(豪農)や一般市民は板垣を頼り自由民権運動を推し進めていった。
- その後は、国を動かすまでの力を得、更にその仕組は現在にも引き継がれている部分がある。近代への転換点の一つです。
- 板垣の求めいたものは、欧米式の合理的で自由な国にしたかったということ
自由民権運動とは、当時の政治のあり方に反対したそれぞれの立場の人間が、国が変わるように求めたことです。
自由という言葉が入ってきているので、現代のようなものを想像してしまいますが、当時はまだまだ上の言ったことは100%絶対!という時代でした。
それを少しずつ改善していこうと言ったのがこの運動です。
いかがでしょうか。大事なのは、上の5項目だけです。あとは用語を少し覚えればいいだけです。これで多角的に聞かれても答えがでてきますよね。
もうね、この新政府時代に、板垣といえば自由民権運動に関わることだし、征韓論の方から聞かれるか、板垣のことから聞かれるか、現在の国会の礎にもなった自由を求めるうんちゃらかんちゃらなどで聞かれるだけです。あとはその用語を聞かれるくらいですので、太字はしっかり覚えましょう。