聖徳太子が作った日本の基礎。3つの大切なポイントとその背景について
みなさんは聖徳太子と聞いて何を連想しますか?
受験生の皆さんはもしかしたら見たこともないかもしれませんが、
昭和59年までは1万円札に聖徳太子の肖像画使用されていました。
とっても偉い人だから1万円札になれたと思ってください。
日本が古代から中世へと転換を図っていく過程の中で、聖徳太子は間違いなく最重要人物でした。
十七条憲法の制定や冠位十二階、遣隋使の派遣など多くの業績を上げた聖徳太子。
聖徳太子を抑えておくことで、古代日本がどういう風に変わっていったかを理解できますし、
受験にもきっと役立つはずです。
聖徳太子は本名じゃなかった!
聖徳太子という名前は諡号(しごう)と言って、貴人などがその業績を讃えられて
死後に贈られる名前です。
(歴代天皇の名前もその多くが諡号であって、同時代にその名前で呼ばれていた訳ではありませんでした)
聖徳太子が生きていた時代には彼は厩戸皇子(うまやどのおうじ)、または厩戸王(うまやどおう)と呼ばれていました。
歴史学者にもそれに習って、聖徳太子と呼ばず、厩戸皇子(厩戸王)で通していらっしゃる方もいますが、
ここではわかりやすく聖徳太子で統一することにします。
聖徳太子の血統
聖徳太子のお父さんは用明天皇。聖徳太子は用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間にできた子どもです。
用明天皇は蘇我稲目の外孫にあたり、また穴穂部間人皇女も蘇我稲目の外孫になります。
つまり、聖徳太子は蘇我家の血を濃く引き継いでおり、蘇我氏とは切っても切れない関係にありました。
当時の朝廷は蘇我氏と物部氏の2大勢力があったのですが、
崇仏派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏)とに別れて血で血を洗う抗争を繰り広げます。
聖徳太子も崇仏派の一員としてその抗争に参加しますが、
587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたことで、蘇我氏の権力は盤石となりました。
592年には、蘇我馬子が蘇我氏の権勢を嫌った崇峻天皇を暗殺させてしまいます。
今も昔も天皇を殺すことは日本人にとってタブー中のタブーであり、
崇峻天皇は民間の人間に暗殺されたたった一人の天皇という不名誉な記録を作ることになりました。
このように、当時の朝廷は蘇我氏が権勢をほしいままにしていた時代でした。
推古天皇の即位と聖徳太子の政治参加
592年、蘇我馬子は崇峻天皇暗殺後の天皇として、敏達天皇の皇后であった額田部皇女を擁立します。
ここに日本で初めての女性天皇、推古天皇が即位することになりました。
翌、593年、聖徳太子は推古天皇の政治を実質的に取り仕切る立場となり、様々な政策を推し進めたとされています。
後の律令国家への礎であり、日本人の国民性を作るような重要な政策もありました。
冠位十二階の制定(603年)
冠位十二階階とは、徳・仁・礼・信・義・智を更に大と小に分けて12の階級を作り、
それぞれに紫・青・赤・黃・白・黒の冠を授けました。
氏族ごとに世襲されていた姓(かばね)と異なり、個人の才能や功績を元に授けられたもので、
身分の低い者にも出世できるような制度でした。
冠位十二階の制定により朝廷は、世襲制から能力主義の官僚制への道を開き、
律令国家への第一歩をスタートさせたと言って良いでしょう。
十七条憲法の制定(604年)
続く翌年、聖徳太子は十七条憲法を制定しました。
第一条「和を以て貴しとなす〜」を他のどの条文より先に持ってきた十七条憲法は、その先も日本人の精神を象徴的に
表すことになります。
また、第二条「篤く三宝を敬え〜」(三宝とは仏・法・僧のこと)では、
天皇よりも先に仏教を尊ぶことを教えとしたこの条文から、国際国家としての「倭」の位置づけを盤石とさせる意味もありました。
このような法を制定した背景には、緊張を高めていた新羅との対立、中国大陸の覇権国家であった隋との関係を築く、
ために必要であったと考えられています。
遣隋使の派遣
「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す」のくだりで有名な国書は
第二回遣隋使(607年)、小野妹子によって隋の皇帝・煬帝(ようだい)にもたらされたものでした。
対等であるかのように書かれたこの国書に煬帝は不快を示したと言われています。
しかし、その後隋から裴世清(はいせいせい)を国司として遣わせたように、緊張を高めていた朝鮮半島が倭国と結びついて
脅威とならないように配慮されたためと考えられています。
このように、隋の文化を取り入れることを目的としながらも、国際社会の中で倭国の地位を確立するため
遣隋使は派遣されたと考えられています。
最後にまとめの問題です。
問)聖徳太子が行ったとされる主要な政策を3つあげてください。
答)
冠位十二階の制定
十七条憲法の制定
遣隋使の派遣
このような政策は、当時の朝廷が蘇我氏主導のもと、
政治的にも文化的にも倭国(日本)は、当時の国際社会の中で大きな存在を示すために行われました。
その過程で律令国家体制への第一歩も踏み出していくきっかけにもなりました。
聖徳太子はまさに国家としての日本を作りだした人物であるといえるでしょう。