戊辰戦争における幕府側の志士たちと悲劇。10分ぐらいで白虎隊の戦いが分かる!
会津藩ってどういう藩?
白虎隊については白虎隊が結成された会津藩の歴史を知らないとね。
会津藩の初代藩主は保科正之という領民への多くの業績を成した人物だ。
保科正之は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の隠し子だったため、子供の頃は命の危険性があるほどの苦労をして、高遠藩保科家の養子として過ごしていたんだ。
のちに高遠藩主となったが、3代将軍徳川家光が本質を見抜き、高遠藩から山形藩、山形藩から会津藩へ移るなど家光から信頼されて、家光亡きあとは4代将軍家綱を補佐するなど、幕府の重要人物だったんだ。
幕府からの温情が強かったのか、保科正之が残した15か条の家訓、その第一条には「大君の儀、一身大事に、忠勤を存ずべし。列国の例を見て自らを処すべからず。もし二心を懐かば、即ちわが子孫にあらず。面々従うべからず」という、幕府や将軍家への忠義を第一として、もしも将軍家にそむこうならば、家臣は従わないというしっかりとした家訓を定めました。
これが会津藩主の基盤となり、会津藩9代藩主松平容保も貫いたので、幕府から任命された京都守護職を会津藩家老・西郷頼母の反対を押しきって、京都守護職に着いた。
戊辰戦争では薩長に対して恭順の意を示したが、京都守護職に着いて薩長の怒りを買ったため、戊辰戦争で新政府軍から攻撃の対象にされた。
白虎隊ってどういう部隊?
白虎隊は16歳から17歳までの武家の男子からなる少年部隊。
- 上士からなる士中一番隊から二番隊は各50名前後。また、会津藩の藩校・日新館への入学は上士の子弟が対称だったんだ。
- 中士からなる寄合一番隊から二番隊は各50名前後。
- 下士からなる足軽一番隊から二番隊は各50名前後。
白虎隊への入隊は16歳からだけど、長身だった為に年齢を偽って白虎隊に入る白虎隊隊士もいたんだ。。
白虎隊のほかにも年齢や経歴などに応じての戦闘部隊がある。
- 18歳から35歳までの武家の男子からなる実戦部隊。朱雀隊
- 36歳から49歳までの武家の男子からなる国境守備隊。青龍隊
- 50歳以上の武家の男子からなる予備部隊。玄武隊山本八重の父・山本権八も属していた。
- 15歳以下で白虎隊に入れない少年部隊。年少組松平容保の警護が役目だった。
- 50歳以上で玄武隊に所属していない老齢部隊。隠居組
- 朱雀隊・青龍隊の年配者からなる特殊部隊。砲兵隊・遊撃隊
- 次男以下の男子たちからなる弓馬槍刀の免許取得を持つ精鋭部隊。別撰組ちなみに新撰組という名前自体は会津藩に伝わる部隊で、小姓などからなる部隊らしい。
- 会津藩士で会津藩以外での出身者たちからなる地方部隊。寄正組
- 中野竹子や会津藩家老・神保修理の妻雪子など薙刀で戦う女性部隊。娘子隊正規の部隊ではなかったので衝鋒隊の指揮下に加わって戦ったんだ。
他にも猪苗代隊や武士以外の部隊があったんだ。
白虎隊の戦いについて
白虎隊は予備兵力として本来は前線で戦う事はないはずだったんだ。
戊辰戦争下での非常時とはいえ、白虎隊の少年たちは会津藩の未来を担う優秀な人在だったからだ。
松平容保は白虎隊の少年たちを失うわけにはいかないと、任務は若松城の守備にあったんだ。
なのだけど、母成峠が破れて、新政府軍が侵攻してくると、白虎隊に出陣命令が下った。
白虎隊の次なる任務は滝沢本陣の守備。その最中、滝沢本陣を守備していた白虎隊隊士は新撰組の土方歳三に出会ったんだ。
土方歳三は白虎隊の少年たちに自らの武勇伝を語るなど、白虎隊の少年たちと交流を交わしたんだ。
白虎隊の少年たちにとって土方歳三は憧れの存在だったからだ。
そして白虎隊に次なる任務が下る、それは戸ノ口原への出陣だった。
- 戊辰戦争:戸ノ口原の戦い
白虎隊が戸ノ口原に向かう前、食料などの携帯品を置いて身軽で行くようにの命令を受けた。
そして戸ノ口原で白虎隊の少年たちはゲベール銃を使って、新政府軍に打撃を与えたんだけど、その夜、雨が降ったため白虎隊の少年たちは体力の消耗と食料などの携帯品を置いて来たことによる空腹を余儀なくされた。
白虎隊の士中一番隊は松平容保の護衛のために滝沢本陣に戻ったけど、士中二番隊は引き続き戸ノ口原で新政府軍と戦ったんだけど、形勢が不利なため撤退を余儀なくされたんだ。
白虎隊の士中二番隊が滝沢本陣に戻ってみると、滝沢本陣はすでに新政府軍の攻撃にさらされ、やもなく松平容保は帰城した後だった。
白虎隊の士中二番隊も飯盛山へ続く山道を通って若松城へと向かったんだ。
- 飯盛山での自刃
白虎隊の士中二番隊は山道を通って若松城へ向かったが、途中で散り散りになって、飯盛山へとたどり着いたのは20名だったんだ。
のちに『戊辰戦争実録談』を書き遺した白虎隊隊士・酒井峰治もその一人で、このときに白虎隊の士中二番隊の本隊とはぐれてしまったんだ。
白虎隊の士中二番隊の20名が若松城下を見渡せる飯盛山へたどり着くと、白虎隊の少年たちの眼前に見えたのは新政府軍の侵攻を許してしまい、炎に包まれた若松城下だった。
白虎隊の士中二番隊の20名は若松城が陥落したと誤認して、白虎隊の士中二番隊の20名は飯盛山で自刃した。
山本八重の隣家に住んでいた伊東悌次郎もその一人で、白虎隊の士中二番隊の19名は若い命を散らした。
白虎隊の士中二番隊の飯沼貞吉も自刃したけど、死に切れずにいて、偶然そこを通りかかった人に命を救われて塩川(今の喜多方市)で一命を取り留めたんだ。
- 戊辰戦争:若松城攻防戦
戸ノ口原の戦いで生き残った白虎隊士はなんとか若松城にたどり着いて、場内で治療を受けたり、若松城に立てこもって徹底抗戦をしたんだ。
しかし、新政府軍が若松城下に侵入してくると、城の門は硬く閉ざされ城内に戻れなかった人が多数いたんだ。
しかも、若松城に大砲が打ち込まれると女性や子供などの後方支援にも死傷者が増える一方で、この時若松城に立てこもって後方支援をしていた山川捨松の兄嫁が爆死した。
一ヶ月の籠城戦の末、会津藩は新政府軍に降伏したんだ。
会津藩の降伏によって戊辰戦争における白虎隊や会津藩士たちの戦いは終わったんだ。
会津藩士たちは新政府軍に捕らえられ、それぞれの場所で謹慎したんだ。
生き残った白虎隊隊士も謹慎する事となり、塩川にいた白虎隊の士中二番隊の飯沼貞吉も新政府軍に捕らえられて、今の山口県美祢市に送られたんだ。
新政府軍に捕らえられなかった人たちは戊辰戦争で焼け出されなかった土地に移って暮らし、戊辰戦争の後にアメリカに移住した家族もいたんだ。
遺体の埋葬は許されなかったが、飯盛山で自刃した白虎隊の士中二番隊の19名の遺体は新政府軍の目を盗んで密かに、飯盛山の近くの妙国寺に運んで埋葬したんだ。
五稜郭の戦いを最後に戊辰戦争が終わると、会津藩士たちは下北半島に作られた斗南藩に移動させられたんだ。
斗南藩は不毛の地だったため、多数の会津藩の人たちが飢えと寒さで死んでいった。
それでも、口に入る物は葉っぱでも食べたため、会津藩の人たちはゲダカ(毛虫)と呼ばれたんだ。
そして明治時代に入ると、会津藩の人たちは教育者になった人、警視庁に入った人がいて、明治10年に西南戦争が始まると、戊辰戦争の恨みを晴らすべく、佐川官兵衛など元・会津藩士も従軍したんだ。
また、のちに戊辰戦争での会津藩士たちの戦いや白虎隊の悲劇を書き遺したりなど、戊辰戦争での会津藩士たちの戦いや白虎隊の悲劇の記録を伝えた人もいたんだ。
なぜ戊辰戦争で負けた幕府側でも『志士たち』のタイトルにしたのかは、志士という漢字はこころざし(志)のある侍(士)と書くのであって、日本の危機下での志なら新政府側でも幕府側でも持っているはずなので、新撰組でも白虎隊でも志士と呼ぶ事にしたんだ。戊辰戦争の活躍と悲劇は幕府側も新政府側も同じなんだ。