2つの勢力!公武合体運動と尊王攘夷とは?|日本史勉強法
公武合体って何?
公武合体とは、幕末(1850年代から1860年代)の日本で実行された政策の一つで、一時期ブームになった「大奥」でも題材として取り扱われたことがあるね。
公武合体は、朝廷側(天皇家の伝統的な権威)と幕府側(将軍、当時の家系でいえば徳川家や諸藩を含む武士)の絆を強固なものにして、幕藩体制の再編強化を図ろうとした考え方から始まったんだ。簡単に言うと幕府(徳川家)と朝廷(天皇家)の男女間で婚姻を結ぶことによって、徳川家の血と天皇家の血を融合させ、幕府側の権力強化を行う目的があったんだ。
公武合体を行う背景には当時の幕府側の思惑が複雑に絡んでいるぞ。
なんで公武合体の考え方が生まれたの?
当時、何代も続いてきた徳川家の力が代を継承していくごとに衰退してきていたこともあり、この公武合体をすることによって、もう一度幕府の威厳を取り戻そうと考えたんだ。
また、公武合体を行うことで幕府と朝廷の絆が深まれば都合がいいと思う人が幕府の中で多くいたことも要因の一つだ。
当時の政治的な実権を握っていたのは幕府側だけど、最終的な決定権は朝廷側にあったんだ。これは、当時の日本人のほとんどが「天皇が第一」と考える「尊王」の考えを持っていたからなんだ。この考えの下、幕府は朝廷から虎の威を借りて政治を行っているとみなされていたんだね。だからいくら「こうしたい!」という考えを幕府側が持っていたとしても、朝廷からの許可が下りなければ実行することはできないもどかしさがあったんだ。
きっかけは何だったの?
公武合体の案が出てくるきっかけとなった事件、それはあの有名な黒船来航だ!当時の日本は鎖国の真っただ中。ペリーが来航したのは有名だけど、その事件があったことで今まで鎖国の中、ほほんと日本独自の文化を築き、平和に過ごしていた日本人は今後外国文化を取り入れるか否かで政府の中でも意見が真っ二つに分かれていたんだ。
- 公武合体のきっかけ 日米修好通商条約の調印
安政5年6月19日に日本とアメリカ合衆国の間で貿易に関する決め事を話し合い、結んだ条約。条約を結ぶ際、本来であれば朝廷側の了承を得なければならないところ、当時政治的実権を握っていた幕府側のみの判断で締結してしまったことが朝廷との関係悪化に繋がったとされている。
当時の天皇である孝明天皇は、攘夷を熱望しており、外国との貿易には賛成していなかったんだ。その為、通商条約締結の為の勅書をいただきにきた幕府の役人に対して「そんなものには同意しない!」と許可を与えてはくれなかったんだ。それにもかかわらず、条約を無理やり締結してしまいたかった幕府が勝手に調印してしまった為、孝明天皇はお怒りになり、「歴代の天皇に対して申し訳が立たない」と、譲位を決意されたんだ。締結の際は、当時の14代将軍徳川家茂が署名している。
この条約をめぐって朝廷側(当時の孝明天皇)と幕府側の関係が悪化し、日本経済は混乱が生じることとなった。
相対する2つの勢力 公武合体と尊王攘夷
当時は朝廷と幕府、諸藩の武士たちの考え方が様々に入り混じっていたんだ。大まかには2つに分かれていた。
- 公武合体
上記で示したように、幕府と朝廷の関係修復を図り、「幕府の決定=朝廷の決定」という考え方を各藩に知らしめ、幕府の影響力を取り戻そうとするもの。
- 尊王攘夷
朝廷第一の尊王派により、朝廷の力を知らしめ、外国からの勢力を日本に持ちこまず追い返してしまおうとするもの。こちらの考えでは、悪条件でアメリカから条約を締結させてしまった幕府なんかに頼らず、天皇を擁立することで外国からの圧力に対抗しようした。
勝手な判断に反発者多数! 諸外国との条約締結
日米修好通商条約に端を発し、次々と外国との条約を結んでいく幕府に諸藩の有力者や幕府内でも考えを同じとしない一部の者たちによって、不満が高まりつつあった。その中で、幕府の独裁政権を改める為に、安政5(1857)年4月23日に彦根藩主だった井伊直弼を大老に就任させ、同年の9月7日に開国思想を持った者たち(松下村塾の吉田松陰など)を処刑した「安政の大獄」を行ったんだ。
これにより、開国思想の人々を鎮圧できるかと思いきや、反発心をより強める結果となり、今度は逆に万延元(1860)年3月3日、大老となった井伊直弼が江戸城下で暗殺されるという、「桜田門外の変」が起こったんだ。
これらの事件がきっかけとなり、今まで隠し通してきた「幕府の弱体化」が露見してしまったことに焦りを感じた幕府は、各藩への影響力回復に努める為、公武合体をより具体化しようと動き出したんだ。
公武合体って具体的には何をしたの?
公武合体を提案することで、尊王の立場から朝廷と幕府の関係が「天皇が一番偉い」「幕府は天皇の臣下である」とする考え方を示し、反幕府勢力からの批判を回避する一方で、すでに慣例化していた大政委任論(幕府側が国内で勢力を誇示する為の理論。将軍は天皇より国の政をまかれて統治しているという考え方)をもう一度朝廷と確認し合い、改めて制度として取り入れることを狙いとしていたんだ。そうすることで、幕府側は「自分たちの権力はまだまだ健在だぞ!」と示したかったんだね。
具体的に行った公武合体の政策としては、将軍・徳川家茂と皇妹・和宮様との婚姻だ。和宮様が降嫁することで、公武の関係修復を図ることとしたんだ。
条約締結の際に幕府と関係が悪化した孝明天皇だが、討幕運動には反対され、幕府側から持ち掛けられた公武合体の案を受け入れ、妹の和宮様を徳川家茂の妻にすることを承諾し、政略家紺が成立した。このことにより、公武合体を成功されることができたんだ。
降嫁の発表は万延元(1860)年11月1日に発表され、輿入れは文久2(1862)年に行われた。当時、和宮様には、「有栖川宮織仁親王」という婚約者がいたが、孝明天皇から譲位を言い渡され、泣く泣く効果に承諾したんだ。このあたりの話は、「大奥」でも取り上げられていて、天皇家でのしきたりが大奥内のしきたりにそぐわず、和宮様はとても苦労されていたんだ。
しかし、輿入れ後、家茂が急死する慶応2(1866)年までは家茂との仲は睦まじかったとされている。
その後は落飾して静寛院と名乗り、徳川家存続に尽力するようになったんだ。
このような時代の中実行された公武合体だったが、尊王攘夷を目指す若者たちは、藩に縛られず自由に動こうとする考えから脱藩する者が後を絶たなくなり始め、次第に時代に変化をもたらし始めるきっかけとなっていった。
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