安政の改革を行った阿部正弘とは?老中首座|日本史勉強法
問題:下記に適切なもの入れよ
1853(嘉永6)年、アメリカのペリーが浦賀に来航し、大統領の国書を提出して日本の開国を求めた。そして翌年、ふたたび来航したペリー艦隊の圧力に屈して幕府は、日米和親条約を結んだ。
老中首座の( ① )は、従来の方針を変えて朝廷へ報告し、諸大名や幕臣にも意見を求め、挙国一致の対策を立てようとした。
最も多いのはこの手の問題。
みなさんは①を埋められますか?ちなみに、これは基礎の基礎。わからないって方は反省して覚えましょう。焦らなくてもいいので、1個ずつ覚えていきましょう。
この文章だけで何のことかも同時にわからないといけません。
では、解説していきます。
■安政の改革って何をしたの?
上の設問は、安政の改革について書いてるものです。これは、日本史を選択している受験生はわからないとだめですよ!
ポイントは、老中首座というワードと、ペリーがやってきたこと、そして、従来の方針を変え、諸大名や幕臣にも意見を求めたということです。
少しまとめて書いてみます。
1853年と言えば江戸幕府末期ですね。江戸末期でまず思い浮かべなくては行けないのはペリーが来て、日本は動かざるを得なくなったということです。
まず老中首座の阿部正弘が行ったのは、凝り固まった閉鎖的な考えだけではなく広く意見を求めることでした。生まれや出自に関係なく能力が高いものを積極的に登用していったのも特徴です。
これにより、幕府には優秀な人材が集まるようになりました。その後の明治新政府や、現在でもその考えは色濃く残っています。
覚える内容はこの程度でOKです。
また、幕末の改革って名前がつくのはこれしかありませんからすごく簡単。
そもそも江戸時代の改革で覚えるのは4つだけです。安政の改革、あと3つはすぐに出てくるようにしてくださいね。
ちなみに天保の改革のすぐ後にこの安政の改革がなされているので混同しないようにしましょう!
天保の改革は水野忠邦、その後、老中の筆頭となった阿部正弘がすぐにさらに改革を行ったんですね!
■安政の改革の結果と影響
安政の改革で最も重要なのは、阿部正弘が実施した今までと違い、能力によってどんどん優秀な人材を幕臣として抱えて行ったことです。
安倍が登用していった人物は明治新政府になってからも重役を担う活躍をみせました。有名な人だと勝海舟です。勝なくして大政奉還はありえなかったかもしれません。
ここで、失敗だったことも一つ。
安倍は、それまで政治的意見が弱かった外様大名などにも広く意見を求めました。それにより、諸大名が権力を持っていたんですね。
その頃には、親藩や譜代大名の中で優秀な人材はもうすでにいなかったんです。そんな時に、優秀な外様大名が入ってくるわけですから幕府の影響力は結果として弱くなったと言われています。
当時の「藩」というのは、今で言う「国」と同じです。例えば、韓国や中国、アメリカなどから日本の大臣たちを選んでいったんですね。
どうなるかは想像できますよね?(笑)韓国の人は韓国に有利なような政策を行いますし、中国は中国に、となるわけです。
幕府を守るために行った改革が、幕府の力を弱めてしまったんですね。外様大名とは関ヶ原の戦いで負けた大名たちの末裔です。
当然自分たちがのし上がるチャンスだと内心は思っていたわけです。当然、幕府の勢力図が変化していったというわけです。
まとめ
まとめます。
阿部正弘が行った「安政の改革」は広く優秀な人材を求めた。しかし、親族や、身内で固めていた幕府に外部の人間を登用したことにより、幕府としての力は分散してしまった。
これが、安政の改革です。
ですので、この問題に関しての答えは、「阿部正弘」となります。
少しずつ少しずつ幕府が弱くなっていくのがわかりますね!このように歴史は一本の糸でできています。全てつながっているんです。
倒幕がなされた背景には、関ヶ原の恨みがあり、関ヶ原の戦いの背景には、豊臣方と徳川方の権力争いがあります。どっちについたかでその後の処遇が決まったんです。
そもそも、信長がもう少し生きていれば時代は変わっていたでしょうし、秀吉が幕府を開けたら?
歴史の「if」を考えるときりがないですが、歴史を紐解くのは面白いですね。