禁門の変とは?禁門の変を押さえて幕末を攻略しよう!
■1、禁門の変とは?
禁門の変とは、元治元年7月19日(1864年8月20日)、京都の御所付近で長州藩と幕府側が武力衝突した事件をいいます。
御所のことを禁裏といい、御所の門のことを禁門といいます。
御所の数か所の門(蛤門、中立売門など)付近で戦闘が行われたことから、禁門の変といいます。
なかでも蛤門付近が最大の激戦地となったことから、蛤御門の変とも呼ばれます。
■2、なぜ禁門の変が起こったのか?
長州藩は、京都において、尊王攘夷派の中心的な立場にあり、公家の三条実美らを通じて朝廷にも強い影響力を持つようになりました。
これをこころよくおもわない公武合体派の薩摩藩、会津藩がひそかに手を結び、京都から徴収の勢力を一掃しようと計画し、クーデターを起こします。
このクーデターが八月十八日の政変で、これにより長州藩は勢力を失い、三条実美ら長州藩と親しい公家は官位を剥奪されました。
しかし、長州藩もあきらめたわけではありません。一部の長州藩士は京都に潜伏し、勢力回復のため、他藩の尊王攘夷派と会合を繰り返します。
ところが、その会合の情報を探知した新撰組が、会合が開かれていた旅館池田屋を襲撃しました。これが池田屋事件です。
この事件により、池田屋に集まっていた長州藩士や他藩の攘夷派志士のほとんどが命を落としてしまいます。
池田屋事件を受けて、長州藩では、藩主の冤罪を天皇に訴えるためと称して兵を集め、京都に迫りましたが、その要求は受け入れられませんでした。
やむなく長州藩は、武力で公武合体派を排除するため、戦闘行動を始めます。
かくして禁門の変の火蓋が切られたのです。
■3、禁門の変の経過
御所の蛤門付近で長州藩と会津・桑名藩が衝突、激しい戦闘となりました。
他の門でも戦闘が繰り広げられ、長州側は、一時は中立売門の守備を突破し、御所内に進入するほどの勢いを見せました。
しかし、薩摩藩が幕府側の援軍として駆け付けると形勢が逆転し、長州は破れてしまいました。
■4、禁門の変の影響
禁門の変により、久坂玄瑞ら長州の尊王攘夷派の多くが命を落としました。
また、御所に向けて発砲したことで、長州藩は朝敵となりました。藩主の追悼令が出され、幕府は長州に追討軍を送ります。これが第一次長州征伐です。
■5、さいごに
禁門の変について理解できたでしょうか。
八月十八日の政変から禁門の変を経て第一次長州征伐が行われるという大まかな流れをつかんでください。
では最後に、問題を解いてみてください。
(問)
次の①~④の出来事を年代順に並べよ
① 池田屋事件
② 八月十八日の政変
③ 第一次長州征伐
④ 禁門の変
(答)
②→①→④→③
2で書いた流れをもう一度確認してください。